深夜零時を過ぎると、ひっそりと開店する本屋があった。
真っ暗な車道沿いにあるその書店を外から覗くと、店内にはいつもメガネをかけた痩せた女性がポツンと座っていた。
店は3〜4坪くらいだっただろうか、本棚には上から下まで、びっしりと新刊書が並んでいた。
確か、「羊かぞえ書房」とかいう名前だった。
ここの店主はミステリーやファンタジー、絵本がお好きなようであった。
しかし、お昼でもごく稀にしか人が通らないような場所で、真夜中に書店を開くとは、いかなる考えでもあったのだろうか。
その書店は、自分の中で一番のミステリーでもあった。
すぐ傍にある老舗の居酒屋で、その書店の話題を振ってみると、マスターは全く気づかなかったようで、「へえ、そんなお店あったっけ」と怪訝そうな顔を見せた。
それは、確かにそうだったろう。
その居酒屋が閉店してから、そっと開店する書店であったから。
そんな書店だが、自分の周辺では全く話題にのぼらなかった。
当時はまだ、駅前には数軒の大手書店があり、頼めば配達もしてくれたし、本の入手に関してはなんの不便もなかった。
なぜ人通りのない真っ暗な車道に面した場所に、ポツンと書店ができたのか、そこが謎であった。
ある深夜、自分はふらりとその書店の敷居をくぐってみた。
全くもって、禁足地に立ち入った気さえしたものだ。
店主の女性は、ハッとしたような表情でこちらを見た。
それは、そうかもしれない。
丑三つどきに怪しげな男が、突然店に入ってきたのだから。
とりあえず、自分は「こんばんは」と挨拶をした。
すると店主は、安心したかのようにとびきりのいい笑顔で、「いらっしゃいませ」と応えた。
「あの、まだ大丈夫ですよね。前を通りかかったもので。おもての看板、おしゃれですね」
まず、店の前に出されていた、眠っている少女の上を羊が数匹、飛び越えている手描き看板のことを褒めてみた。
「あっ、あの看板は私が自分で描いたものであります。描き上げるまでに3日かかりました」
と、店主からの説明があった。
当時、ベストセラーといえば『ハリーポッター』シリーズだった。
これも手作りであろうベニヤ板製のランキング棚にも数冊置かれていたが、どうも売れていそうには見えなかった。
しかし、その隣にはロード・ダンセイニの『魔法使いの弟子』の文庫が置いてあった。
「へぇ、ダンセイニの文庫本がある。これ、まだ増刷されていたんですか」
そう店主に尋ねると、「こういう本がこまめに増刷されるのはいいことですね。私も嬉しいです」
との返答だった。
自分はこの店主の趣味に驚くと同時に、本当にこういうジャンルを好きな人なんだろうな、と想像してみた。
何を買ったのかは忘れたが、数冊の本を手にして帰路についたことだけは覚えている。
それから、深夜に幾度か「羊かぞえ書房」の前を通ったが、相変わらず客の姿はなく、そこには寂しい光景があった。
しばらくして、「羊かぞえ書房」は閉店していた。
いや、閉店したのかさえもわからなかった。
結局、一度伺ったきりなのだが、あの店主のにこやかな笑顔だけは忘れてはいない。
彼女は、ああしながら、夢で出会った羊を探していたのだろうか。