この人凄い!毛利高政という男 3 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

 

 

 

JR佐伯駅からレンタサイクルで、駅を出て右に曲がりそのまま直進。小さな橋を渡りすぐ川沿いの菖蒲園に沿って走ると、次の橋が見えてくる。 その橋を右手に見れば、上の写真のような風景が見えていると思うが、 五所明神社 ここは平安時代の806年創立 ・・・・・。説明によると、毛利稲荷や毛利家の御先祖などを祀る神社なども共に祀る。 国木田独歩館へ向かう途中で、先にこちらへ寄り道してみた。

 

 

 

 

社殿に向かって左手に行けば、奥に記念物・ここでは文化財指定?となっている  の木があった。 写真の後ろに見えている木だよ。

 

名前は聞いたことがあったが、調べてみると梛は古くから神社などに見られ・・・・。縁起のいいものとされてきたそうです。 日本では温暖な地方に生息し、 阿弥陀如来の化身 と言われていて、護符として祀られたりもしました。 榊の代わりに使うところもあるんだそうですよ。

 

葉が丈夫で切れない・・・・、それ故人々は昔から縁結びやあるいは、全ての苦難をなぎ払う と、災難厄除け 家内安全 またなぎが 凪に通じると、海の安全などのお守りにもされました。

 

 

実験した人がいて、本当に切れないのかと試したら、横にした葉を左右に引っ張っても切れなかったが、葉っぱを縦にして裂いたら・・・・・

 

切れた!? ・・・・・(笑) まっ、基本丈夫ですから!見かけたら手に取って、お守りとするのもいいかもしれませんね。 私が行った時には、花も実もなかったけど、微かになにかいい匂いがしていました。

 

 

戦国時代・・・・毛利高政は、九州に来る前から実は・・・・・

キリシタンの洗礼を受けていました。 切支丹大名であった高政は、

賤ヶ岳の戦に出た数年後、1586年 天正14年頃に洗礼を受けたと言われている。 秀吉が天正15年に出した・・・・・・・ 

キリスト教制限令 の頃の記事つは見えなかったが、家康が同じように禁止令を出した頃には、彼は一度家康の言葉に従って、棄教している。  だが、不思議と高政が信者達を迫害したという記録などは、彼が生きていた時代に関して言えば、ないのだという。 それどころか慶長11年、再び入信して佐伯の地に、キリシタン寺を建てたり。

 

 

調べてみると、「日本切支丹宗門史」には・・・・、城下に小さな修道院や自費で天主堂・もう1つ大規模な修道院を建てたと記録されていると言うことです。 そして彼は、キリシタン寺を建てた後に、再び教えを捨てたそうです。 

 

 

だが毛利高政死後の寛永10年 1633年2月・・・・、鎖国強化・キリシタンの取締が厳しくなった事で、佐伯の城下でもキリシタン11名が、

転ぶ (棄教) 事を拒否して、城下の六本松磧で火刑に処される事に。その中には、藩士であった 加島弥右衛門 もいたという。

 

 寛永14年 1637年10月・・・・、世に云う 島原の乱 が起こる。

 

佐伯藩2代藩主となった 毛利高直 は、当時江戸の地にいました。 島原へと出陣していた佐伯藩の毛利家。 混乱している九州の切支丹達の地において、藩主はまだ幼き子供であり、何か起こっては大変だろうと、佐伯藩執政家老であった 並河信吉 を気遣って、

老中 松平伊豆守 が、「藩の守りこそ重要」と言ってくれた事で、兵を 豊田元勝 に託して帰藩。

兵達は 細川忠利 のもとに加わる事となり、敵陣突入にて奮戦して活躍を見せた。

 

この豊田元勝こそ、キリシタン11名を火刑とする時に、その火をつけ見届ける役目をしていた男で、彼はこの島原の乱にて、もっとも恐ろしく壮絶な思いを知る事となってしまった。

 

島原の乱は、キリシタン問題だけでは起きなかった乱だと、認識している方はどれくらいいるだろうか? 原城や日野江城 (共に南島原市) を廃城とし、新たな城の築城に着手、7年もの歳月と述べ1万人とも言われる労力で、寛永元年 1624年に島原城が完成した。

 

だが、耕作地が少なくて凶作に苦しめられていた農民達は、島原や江戸城拡張工事への使役と重税などにより不平不満が募りて、これらが原動力となり島原の乱へと向かっていく事になったんです。 それにたまたまキリシタン信者が多くいたというだけ・・・・。 あっ、話しがズレちゃいそうなんで、この話しはまたいつか・・・・・・(´へωへ`*)

 

 

 

 

     前回までの佐伯城址に戻ってまいりました。( *^艸^)

 

前回までは西の丸入口までお話ししたんだけどね。 今回は北の丸までご紹介・・・・・。 ここ西の丸にて、とても不思議な風景を見つけました。それがこちらです・・・・・・

 

 

初めは私も、何か掘っているんだろうと思ったんだけどね。 近づいてみればなんか違う。 どうやらこれは、 戦争遺跡 の跡のようでした。 大きさからしても、大体はそれを連想させてくれましたが、後で調べてみると、やはり 機関砲の銃座跡 だったようです。 

城跡に、こんな跡が残っている風景を、私初めて見ました。 第二次世界大戦の頃、ここ佐伯はとても重要な役割を果たしていました。

 

昭和5年には、歴史の人物としてその名を知る。 山本五十六 も、航空母艦赤木の艦長だった頃、佐伯の東光山大日寺に、参詣したと記録があります。 その五十六が、 「第一開戦準備ヲ成セ。Y日ヲ十二月八日ト予定ス」 と発伝した1941年 昭和16年11月7日・・・・

 

これを受けて、佐伯湾に碇泊中の連合艦隊主力艦と佐伯航空隊は、真珠湾攻撃に向けての最終訓練を行った。 そう・・・・、ここには基地があったんだ。 だからそれにまつわるいろんな話しも、当地には残っていて、佐伯駅から徒歩10分ほどの所には・・・・・・

佐伯市平和記念館やわらぎ があるから是非行ってみて欲しい・・・・って、┐(´ー`)┌実は私もまだ行ってないんで、次回はね・・・・。

 

戦争遺産としては、他にもあるようですが、このお城で見かけたのは、この西の丸のものだけでした。

 

 

こちらは西の丸から山側を見た風景・・・・。 丁度椅子に腰掛けて、お弁当を食べている方々がいました。 平和な世の中で、本当に良かった。 熊本城もそうですが、守りを固めるための築城をしたのに、平和な時代となって、一度も戦に使われなかったお城は、その後近世という時代になって、初めて戦に使われる事となる。 なんとも複雑です。

 

 

二の丸には、御殿があったようですが、西の丸には特に何もなくて、城を囲むような城壁には、二の丸にも西の丸にも、 二重櫓 が1基づつあったようです。後は、前回アップした二の丸から西の丸への石垣が残る急に狭くなっている石を敷き詰めた道の辺り・・・・・・ 

二の丸虎口 には、 渡櫓 があり・・・・・二の丸には他に 

平櫓 そして、西の丸には今も下から上がってくる山道の入口に、  があった。 

 

 

さて、・・・・・一気に本丸から二の丸への廊下橋の下まで来ました。

これからこの先の細い道を北の丸へと進みます。 この廊下橋は、昔本丸から二の丸へ向かう時に使われ・・・その先では、幅の狭い階段を登らなくてはならなかったそうです。 何か事が起これば、この橋を落として侵入を防ぐ。 そうゆう目的もあったんだとか。

 

 

本丸外曲輪の辺りから下を見れば、この城がけっこう険しい場所にあることもわかります。

 

 

    本丸の石垣は、高さ6m・・・・この城で、一番高いそうな。 

 

 

こうゆうところで、暫くじっと見上げてみる・・・・なんてことも、好きだったりする。( *^艸^) で、次は登れそうか考えるが、この城の今いる位置からすると、曲輪狭いし危険な場所だけに、落ちたら大変なことに・・・・きっと、昔の人もそうゆう考えもあっての計算だったのかもしれないね。

 

 

 

 

 

この場所で、前回話したTシャツのおじさんと、初めてお話しをした。 おじさんが言うには、この日の前日・・・・・このお城の敷地内の雑草を、綺麗に刈り取ったんだそうです。 私はとてもラッキーだったのかな。(笑) 言われて気がついたが、本当に城域内・・・・綺麗だった。

 

おじさんは、毛利高政の事を、ずっと佐伯の人だと思っていたようで、ここへ来る前に日田・玖珠郡から来たんだよ。 毛利という名前わね・・・・って、教えてあげたら・・・・。 驚いて 「そうだったのか」 って、

( ˆmˆ ) そして、私がこの城へ来たかったある事を、尋ねてみたんだけど、おじさんこれも知らなかったようだった。 (^_^;)

 

 

北の丸を示した案内が立っている側に、下へ降りる急な階段を見つけた。 そこを少し降りてみたんだけど・・・・・・

 

 

とても急な危険な道が、随分と下まで続いていた。 どうやらこの道も、この城への山道の1つで、 若宮の道 と言われているようでした。 ここにも、昔は 水の手門 というのが、あったんだそうです。 そして北の丸にも二重櫓が・・・・・。 おじさん曰く、この下を下ると・・・・・ 雄池 雌池 (おんいけ めんいけ) と言う池があるが、そこへ至るこの道の途中が、夏の台風でやられて、通れなくなっているとか・・・・・・。

 

 

丁度この写真の木立の中に、遠く見えているブルーシートの色が見える辺りに、池があるらしい・・・・・。この池は、戦に備えた山城故の溜池であり、・・・・・ オオイタサンショウウオ (県の天然記念物) が住んでいるらしい。

 

また・・・・この道を降りきると 白潟遺跡 なる県の史跡もあり。 弥生時代から平安時代にかけての物が出ていて、それらはその近くにある。 若宮八幡宮 社殿横に展示されているんだそうです。 この八幡さんは、京都の石清水八幡宮から分祠されたもので、この山に城を築く時に、白潟の地に移された、1604年 慶長9年・・・・・

 

毛利高政が、元々山頂にあったものを移してからは、歴代佐伯藩主の庇護を受けて、佐伯藩の鎮護の神として祀られてきた。

 

高政には弟がいた。 吉安 というらしい。 日田の地にいた時にもそうだったが、佐伯でも2万石の1割・・・・・2千石を知行していた。 いくら弟とはいえ、よくある話しでここにもお家争いが起こる。 高政の後継は、2代藩主をその子 高成 が努め。 高成の嫡子 高直 が、3代藩主と決まっていた。 朝鮮出兵にも出ていたという吉安。 しかし、これに対しての分知は、決して良しとしておけるほどの恵まれた藩の財政とまではいかなかった。 結局吉安は、その2万石の内の2千石を、佐伯藩に返すのではなくて、なんと幕府へ返上・・・・・

 

これにより彼は、幕府直属の旗本となったという。 しかし、その後もこうした事で、争いは続いたらしい。 幕府へ返上する事は、吉安の最後の抵抗だったのかもしれない。

 


 

この時の2代藩主 毛利高成 という人物は、寛永9年 1632年・・・・5月22日、加藤清正の子で、熊本藩2代藩主であった・・・・ 

忠宏公 が、参勤の折に品川宿にて足止めを受けて、その後出羽庄内藩主・・・酒井忠勝 預かりとなった時、改易された加藤家の城 熊本城 を、貰い受けに城番として参じたのが、豊後岡藩2代藩主 中川久盛 と、こちらの毛利高成だったのです。  

 

引渡しの役目後に、佐伯に帰り着いた途端に、病にかかり同年11月7日に急死してしまいます。 まだ30歳の若い藩主でした。

 

だから江戸にいた3代藩主となった毛利高直が、まだどれくらい幼かったのか・・・・・想像つくと思います。

 

 

秀吉の命を受けて、人質として備中高松城攻め後に、毛利輝元のもとにいた毛利高政。 輝元が高政の気質を気に入って、自分達と同じ

毛利という姓名を与え。名乗ることを許したのだけれど、義兄弟となっった高政は、賤ヶ岳で信長後継者の席を譲らない柴田勝家との戦にて、槍で随分と活躍をしたようですが、その事も・・・・よほど嬉しかったのか。 輝元の元へその事を綴った書状を送っています。

 

その時共に秀吉から人質として、毛利方にいた高政の兄・ 重政 は、後に豊後国速見郡 日出城 城代として、後に豊臣家最後の身内となった北政所の甥の城に入ります。 但し・・・・重政が入った頃には、今のような縄張りではなかったかと、ブログにも何度か登場した日出城は、木下家が入る時に、木下延俊の妻に細川忠興の妹がいたために、忠興が縄張りに関係して、その後城が築かれているので・・・・・

 

きっと別の城となるんでしょうが、重政もキリシタンだったとかで、日出の城下にある若宮八幡の社殿を破棄して、海に投げ入れたと聞きます。 同じキリシタンでも、弟・高政とは考え方が違っていたようです。

その後重政は、慶長の役で死亡。 

 

その日出に関係した細川家の城。細川幽斎 が守る 田辺城 を、2ヶ月に渡って高政は攻めた事がありました。 勿論高政の軍だけではありませんが、しかし・・・・この長い時間が、その後の彼の運命を救う事にもなったのです。

 

 

多くの大名がそうであったように、毛利高政も石田三成とは既に確執がありました。 それは、朝鮮出兵での三成の秀吉への報告。

そして、その後の徳川家康の対応と藤堂高虎の家康側への誘い・・・高政は、天下の目利きをしたのです。

 

田辺城開城は9月18日・・・・・。 天下分け目の関ヶ原は、15日の午後3時頃には戦の決着がついていました。 田辺から日田へ引き上げる途中で、 領地日田を守っていた留守居役の家老 沼 隼人 の元には、 黒田官兵衛 からの使いが来ていて、東軍参せの申し入れがあったのだ。

 

 

 

沼は城に残る者と評定。 東方に寝返るも、まず  を通すべきと、せめて一線を交わねばという結論となり。 夜半に黒田家からの使者の 栗山利安 を襲撃・・・・・優勢の中に兵を引き上げ、翌朝利安に使者を送り、「遠来の労を謝し 申し出を受け入れ東軍に応じる」 と告げたと記録が残されています。 これには既に、そうしたことがあれば、田辺の地より高政自身が、その旨を伝えていたんではという人もいます。 賢い高政なら、考えられないこともない話。

 

これは田辺城開城10日前後の事。 高政42歳の頃でした・・・・・

 

名を頂いた過去からまず西軍でと、毛利輝元のいる西軍について、己の義を果たした高政。 佐伯2万石移封決定が、この後慶長6年・・・・・

1601年4月5日に下された。 その10日後、彼は佐伯の地に入る。

 

慶長7年 1602年・・・・、伊勢守 になるとその礼を兼ねて、伏見城にて、家康と会う。 この時に、高政は築城の許しを得たという。

外様大名には、その第二候補地までしか許可しない幕府の方針で、あげていた 八幡山 の方に築城が決まった。

 

 

もう一度天守台に登ってみた。 そこにはこんなふうに小さな社が置かれているんですけどね。 4年の歳月をかけて、完成させたというこの城は、元和3年 1617年・・・・二の丸からの失火にて、本丸と天守を失いました。 その後も、天守閣は再建されることはなく。現在は古文書に伝承として残されているのみで、詳しい事はわかっていないそうです。

 

  只、天守閣は三重三階で、南向きであったと伝わっています。

 

1代と2代藩主は本丸で、3代藩主は寛永14年 1637年・・・・・

山頂では執政が不便と、三の丸に御殿を建てて、ここを居城とした。そして櫓門も建てました。 それ以来山上の施設は放置されて荒れ放題となり。 その後天守以外の他の施設が再建整備されたそうです。

明治4年 1871年の廃藩置県で、隅櫓も土塀も失くしました。 現在残されているのが、3代藩主 毛利高直 の三の丸の石垣 と・・・・・・・

 

 

こちらの 三の丸櫓門 ・・・・・。 寛永14年 1637年とその後の・・・1726年に再建・・・・天保3年 1832年にも、再々建されています。 入母屋造り本瓦葺で、黒門の愛称で今でも、佐伯市の人々に愛されています。 現在この門は、県指定有形文化財となっています。

 

 

高直は、三の丸に築造したのですが、当時ここには大小数十棟の城館が並び、明治の世までの230年間に渡って、ここが佐伯藩の藩政の中心でありました。 そして、現在三の丸には、私が自転車を止めていた 佐伯文化会館 が建っています。

 

そしてもう1つ、・・・・・。 三の丸にあった 三の丸御殿 は、現在佐伯市の船頭町に移築されています。 住吉御殿 と現在呼ばれているものは、三の丸御殿の玄関部分で、広間・使者の間など約33坪の1棟の御殿建築で、文化会館建設に伴い今の場所に解体移築されて、船頭町公民館として使われています。

 

 

佐伯城址の本丸外曲輪から本丸へ登る階段は、天守台に昭和3年に毛利神社 が創建された時のもので、両側の曲輪を描く石垣も、この時期に積み直されたとあり、絵図によると本来は 隅石 があったと考えられているそうです。 この毛利神社は、祭神に藩祖である・・・・・毛利高政 と8代藩主 毛利高標 (たかすえ) を祀っていましたが、昭和20年4月26日の空襲で、破壊されて・・・・・・

 

 

佐伯城址へ向かう麓、文化会館側の山道へ向かう入口に、毛利神社の鳥居だけが、現存しています。

 

 

    あぁ~~~、三の丸にはこの様な新しい櫓も建った。(笑)

 

 

この絵図に向かって、左端が西の丸そして、右端が北の丸・・・・・。

中央正面が本丸・天守台となっている。

 

明治2年 版籍奉還 により、この城山は明治政府の国有林となりましたが、その後佐伯県執事係 山中盛太郎 の陳情により、明治34年には、元の持ち主である毛利家に、還元されている・・・・・

 

 

ある日地元大分の深夜番組で、食物に関した事を教えているという女性が、歴女の真似事のようにして、番組内で大分市の府内城址の石垣のうんちくを、語ったことがありました。 この方は、以前とあるディスカッションにて、舞台からこの佐伯城の石垣に語ったこともありました。

 

その時、こちらの石垣の事を知ったんです。 それがどこにあるのかと、どうしてもこの目で確かめたくて、ここへ来た訳でして、あの赤Tシャツのおじさんに尋ねたのも、この事だったのです。

 

 

最後に本丸外曲輪に、もう1度諦め気分で足を運んだ時に、偶然この位置からの右手の石垣が、丸い柔らかな曲線を描いていることに気がついた。 これをね、ちょっと角度を変えて見てみるとね。

 

 

ほら・・・・なんとも面白い形に積まれている。 ちょっと寸が足らないが、もう少し高ければ・・・・熊本城の武者返しの石垣にも似ている。

いや、そう言って 「熊本城の石垣と同じ武者返しがあるんですよ」

と紹介していたのは、その歴女を真似た女性の話しだった。

 

  それを見つけたけど、う~~ん・・・・どうだろうか?( ̄◇ ̄;)

 

前に述べたように、本丸の石垣は毛利神社が創建された頃に、両側の曲輪を描く石垣も、この頃積み直されたと言われている。これもそれだとしたら、歴史はまだ新しいし。 熊本城の武者返しのような話しなど、出てきそうもない・・・・。(苦笑) あ~~、地元の方々も注目してなくて、他の誰もが気に求めていないこの石垣の形。確かこの城でも、この場所でしか見られない形だけど、・・・・・

やはり歴女の真似事であったか・・・・・。( *^艸^) 残念・・・・・

 

でも、面白い記念にはなるかもね。 さて、随分と今回は長くなりました。 (≧▽≦)ゞ ここまで読んでくれてありがとうね。

でも、あと少し・・・・・お付き合い下さい。

 

佐伯に入部してきた毛利高政に対して、蒲江浦の源太夫という男が、イワシを献上して浦の産業の大切さを訴えました。

佐伯藩の領地には、九十九浦と呼ばれるほど、浦が多くあり・・・・つまりそれだけ漁業が盛んであり、藩の財政にもなっていたんです。

イワシは油を抜いて、 干鰯 (ほしか) を作り肥料としても用意ていました。 これを、藩の財政が厳しくなると、年貢とは別にして大きな収入源として、干鰯作りから徐々に、流通・販売に至る過程を持ち、それらに税をかけて、文政年間 1818~30年頃には、干鰯は藩の専売品とし、自ら販売して利益を得ようとしました。

 

佐伯の殿様 浦でもつ ・・・・・。江戸時代の豊後を代表する特産品の1つとなりました。

 

 

そんなイワシが、なんとキーホルダーになっていました。( ˆmˆ ) 

これは、佐伯駅の隣にある観光案内所で、500円で購入しました。 干鰯の中に入っていても、気がつかないかも・・・・・。(苦笑)

 

 

当地に明治26年に英語教師として赴任した文豪・国木田独歩も、佐伯を舞台にした作品を、いくつか残している。城山の山頂本丸には、彼の残した歌がの「独歩牌」が建てられている。

   「佐伯の春 まず城山に来たり・・・・・」

 

彼はこの地とこの城址を愛して、何度も何度も歩きそして、この山頂にある佐伯城址にも、足を運びました。 山登りは、毎日の日課でした。

 

 

佐伯城址から見る景色は、本当に素敵です。(^ー^) この写真の山の麓に、今回のブログで最初に紹介した五所明神社がある。 丁度山を回り込んだところから、私はここまでやって来た。

 

 

    五所明神側から見ると、こんなに遠くに山が見えている。

 

最後に! 毛利高政の武勇伝として残っている話しです。

 

  毛利高政! 大阪城天守閣に

               大筒を命中させる!

そして彼は、信長・秀吉・家康・秀忠・家光の時代を、生き抜いた男でありました。 どうです・・・・もっと彼のこと知りたくなりませんか?

私はもう少し知りたくなったぞォ~~♫ (^ー^)