今日はブログを書くつもりはなかったのですが、

前回のブログで2か月ぶりにリハーサルスタジオへ

入ってドラムの個人練習をした話を書いた中で、

2時間ほぼぶっ通しでドラムを叩き続けた結果、

何と18曲ものドラムを練習していた事に

先程気付いてしまいましたので、その事を

書かずにはいられなくなってしまいました。爆  笑

 

しかも前回は全曲ドクタービート(電子メトロノーム)

のクリック音を聴きながらの練習でしたので、

我ながらよくやったものだと自画自賛の心境です。

 

それにしてはその後もあまり身体的な疲れも感じず、

普通に暮らせている事は、やはり私の身体は

ドラマーの身体になっているのかなあ、

と今更ながら自覚してしまいます。真顔

 

しかも前回のブログでも書いた通り、

5Kg程度の重量のメタルシェルの

マイスネアドラムを右肩に、

左肩にはバスドラムを演奏する為のキックペダル、

カウベル、カウベルホルダー、スティックが複数本

収納されているスティックケース、ドクタービート、

着替えの衣服、飲料水、スマホ他が収納された

やはり重量が5Kg程度の鞄を担いで、

酷暑の中を徒歩と電車で移動を続けたにも

関わらずです。

 

練習後にある場所へ行って、充実した気持ちの

良い時間を過ごした事も効果大だと思います。ニコニコ

 

という訳で、前回のリハーサルスタジオでの

ドラムの個人練習では、18曲ものドラムを

ほぼ2時間、休憩なしで叩き続けた自分自身を

少し褒めてあげたい気持ちになりました。ニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

阪急電車の車両の車番です。

今日乗りました。

7027F8連の編成に組み込まれています。

 

今日は約2ヶ月ぶりにリハーサルスタジオへ

入ってドラムの個人練習を実施しました。

 

いつもの1時間ではなく2時間実施しました。

 

2時間の間、ほとんど休憩なしでドラムを

叩きっぱなしでした。

 

場所は2018年8月にやったライブ当日の

ゲネプロで使ったスタジオです。

 

自宅の練習キット(と言う程大したものでは

ありませんが)での個人練習とは違い、

やはりドラムセットを叩いての練習は格別

です。

 

今日もドクタービート(電子メトロノーム)を持参

して、スタジオでシールドをお借りして、それを

ミキサーに繋いでスタジオ内のスピーカから

クリック音を再生して、それに合わせて練習を

しました。

 

前回のスタジオ練習では BIG COUNTRYの

THE STORM をクリック音なしで練習しましたが、

今日はクリックの速さを115にして練習しました。

 

やはりクリック音を聴きながらの練習は難しい面も

ありましたが、逆にどの部分のリズムがずれ易い

かのチェックが出来て、良かったと思います。

 

ただ、いつものように、

自前のスネアドラムとバスドラム演奏用の

キックペダル、スティックケース、ドクタービート、

着替えの衣服、カウベル、カウベルホルダー、

お茶などを手運びで電車と徒歩での移動でした

ので、今日の暑さはかなり身体に堪えました。滝汗

 

しかしここ最近恒例の、スタジオでの個人練習後に

行くいつもの場所へ行って、気持の良い充実した

時間を過ごす事が出来ました。クローバー

 

行きしなに7777に乗車出来た事もあり、

今日は良い一日になりました。ニコニコ

私が36年来のファンであるイギリスのロックバンド 

BIG COUNTRYのデビューシングル曲 

HARVEST HOME について、

表題の内容を感じてしまいました。

 

HARVEST HOME は1982年にアルバムに

先行して発売された BIG COUNTRYの

デビュー曲なのですが、これをプロデュース

しているのはクリス・トーマスです。

 

しかし、発売後このシングル曲が全くの不発に

終わった為、レコード会社は急遽クリス・トーマス

のプロデュースで進めていたアルバムの制作も

中止し、代わりにスティーブ・リリーホワイトを

新たなプロデューサーに迎えてアルバム制作と

次のシングル曲 FEELS OF FIRE を

制作したところイギリス本国内でトップ10入り

を果たし、更にその次のシングル曲

IN A BIG COUNTRY とファーストアルバム 

THE CROSSING もトップ10入りを果たして、

BIG COUNTRY は商業的に成功を収めたのでした。

 

ファーストアルバム THE CROSSING に

スティーブ・リリーホワイトがプロデュースを

し直した HARVEST HOME が収録さていて、

私はずっとそれを聴いて来ました。

 

しかし最近になってYou Tubeに、クリス・トーマスに

よってプロデュースされたデビューシングルバージョン

と思われるHARVEST HOMEがアップされているのを

見つけてそれを聴いているのですが、決して悪い

出来ではなく、私は心地よくそれを聴くことが出来て

います。

 

彼らの3rdアルバム THE SEERについても、

アルバムプロデューサーのロビン・ミラーが

ミックスダウンしたサウンドを、メンバー自身は

納得していたのに、レコード会社がそれを気に入らず

一方的にウォルター・タービットにミックスダウン

をやり直させてアルバム発売にこぎつけたように、

デビューシングルのHARVEST HOMEについても

おそらくメンバー自身は不満はなかったのでは

ないかと思われ、不発に終わった為にレコード会社

が一方的にプロデューサーをスティーブ・リリーホワイト

に切り替えたものと思われます。

 

と言う事は、レコード会社はクリス・トーマスにも非常に

失礼な事をしていたのだと思わざるを得ません。

 

前にもこのブログで書いた通り、THE SEERの

ミックスダウンが気に入らなかったのはメンバー自身も

そうであるとずっと思い込んでいた所、wikipedhiaの

記述を読んで、そうではなくレコード会社が一方的に

ミックスダウンをやり直させた事を知って、

私はショックを受けたのですが、ファーストシングルも

そのような経緯だったものと思われます。

 

メンバーのブルース・ワトソンがコメントしている、

”あの頃の我々とレコード会社の関係は最低だった”

との内容の通り、レコード会社はメンバーや

プロデューサーの意志や気持ちを全く考えず、

ただ売ることだけを考えていたのだと思います。

 

それが結果的に2曲目のシングル FEELS OF FIRE

やファーストアルバム THE CROSSING がトップ10

入りを果たした事で、ますますレコード会社は彼らに

注文を付けるようになったのだと思われます。

 

しかし、そんな状況下でもあれだけのオリジナリティを

貫き通したBIG COUNTRYは、偉大なバンドである

と感じてしまいます。

 

THE SEERの件をwikipedhiaの記述を読んで知った事で、

レコード会社の一方的なやり方に結構バンドが

翻弄されて来た事を知ったのですが、それを読むまでは

HARVEST HOMEもメンバーの意志でプロデューサーを

変えたと思っていたので、今更ながらクリス・トーマスに

申し訳なく思ってしまうのでした。

 

何故ならバンドのメンバーからの低評価と思い込んで

いた為にクリス・トーマスを少し侮辱気味に私が見て

いた事は事実で、しかしレコード会社の一方的な

判断でスティーブ・リリーホワイトに交代させられた

のであれば、クリス・トーマスには罪は無い訳で、

事実を知る、と言う事の重要性を改めて感じて

しまいました。

 

クリス・トーマスがプロデュースをしたHARVEST HOME

は決して悪い出来ではない、と私は感じます。

 

しかし、スティーブ・リリーホワイトがプロデュースを

し直した事で彼らはメジャーな存在となって、私自身も

そのおかげで彼らを、彼らの音楽を知る事が出来たので、

やはり人間関係って、本当に複雑で煩わしくて鬱陶しくて

ややこしいものなのだなあ、と思わずにはいられません。ショボーン

 

 

 

 

 

 

 

今の季節になると思いだすのです、

私が中学2年の時の夏休みの事を。

 

この年の春から父に勧められて、

私はフォークギターを弾くようになりました。

 

私の父は独自の教育方針を持っていて、

私に”勉強しなさい”、と言った事はほとんど

ありませんが、

”お前もギターの一つくらい、弾けるように

なっておけ”と言って、私にギターを

教えてくれました。

 

それを見ていた兄が、過去に自分がギターの

練習をする時に使っていたソングブックを

私にくれたりして、私のギターの上達に

協力してくれました。

 

その頃はアリスなどのニューミュージック系の

音楽が流行していて、ギターの弾き語りの

練習をするにはうってつけの楽曲が手軽に

聴ける、とても良い時代だったと思います。

 

兄がくれたソングブック以外にも、

ギターコードが記述されている当時の

流行歌がほとんど全て収録されていた

月刊 歌謡曲 なる書籍も発売されて、

それらを購入して、学校から帰ると

ほとんど毎日自宅でギターの練習に

勤しんでいました。

 

中学1年までの私は、特にこれと言った

特技もなく、自分に自信を持てないまま

過ごしていたのですが、中学2年になると、

自宅に何故かエキスパンダーがあって、

それで毎日腕力を鍛えたり腹筋運動

などをするようになって、ギターの練習と

相まって自分に自信が持てるように

なって行ったのでした。

 

そんな私が更に新たに始めた事として、

私一人で電車に乗りに行くと言う

楽しみもあったのでした。

 

私は小学生の頃から地元を走る山陽電鉄が

大好きだったので、中学2年の4月の土曜日、

初めて一人で東二見まで山陽電鉄に

乗りに出かけたのでした。

 

そしてその事も、自分が何か大人になったような、

そんな充実感を味わう事が出来て、

更に自分自身に自信を持つことが出来たのでした。

 

それから2週間毎に、土曜日は午前中学校へ行って、

午後からは山陽電鉄に東二見まで乗りに行く事が、

私の恒例行事になりました。

 

そして待ちに待った夏休み、

あれは7月21日の土曜日でした、

夏休みの初日に、私は朝から山陽電鉄に

乗りに出かけたのでした。

 

それまではずっと午後に乗りに出かけていて、

午後の風景やら雰囲気しか分からなかった

のでしたが、

午前中の当時の山陽電鉄沿線の風景を

楽しんだり、駅や車内の様子を楽しんだりして、

今思い出しても、本当にうきうきと心が躍るような

そんな気持ちで乗車を楽しんでいました。

 

行きしなに乗車したのが3060Fの東二見行の

普通列車でした。

当時はまだ山陽電鉄では、冷房車の両数が少なく、

9編成のみが冷房車でそれ以外は全て

非冷房車なのでした。

 

その9編成のうちの1編成が自分が乗車する

列車として運用されていたので、凄く嬉しかった

のを覚えています。

 

しかも当時の3060F4連は、2番目に新しい編成で、

まだピカピカな感じでした。

 

昭和53年12月に製造された

3062、3063、3636

が当時の最新鋭車で、その頃の私は運転室灯に

興味を持っていたのでしたが、

昭和54年1月に、走り始めたばかりの3636に乗車

する事が出来た時に、運転室灯をわざわざ観に行った

のでした。

 

山陽電鉄の車両は、客室は当時既に全て蛍光灯に

なっていたのですが、運転室灯は古風な白熱灯が

装着されていて、しかも旧型客車に装備されている

ような、乳白色の丸いガラスグローブに収納されて

いて、3000系のような近代的な車両でも運転室灯

だけは古風な白熱灯だったのでした。

 

しかし当時最新鋭の3636の運転室灯は、

白熱灯ではありましたが、カバーが近代的な角型に

改良されていて、その当時の私はそれを見て

大きな感動を覚えたのでした。

 

それで夏休み初日に乗車した当時2番目に新しい

(昭和52年6月製造)の3060の運転室灯が

どうなっているか、乗車するとすぐに最後部の

運転室の天井を覗きました。

 

すると古風な乳白色の丸いガラスグローブが

見えたので、近代的な角型のカバーを付けた

運転室灯は3062Fから採用された事を

知ったのでした。

 

更に当時の私は、車両の側面に設置されている

行先表示/列車種別表示幕の指令器にも

興味があったので、運転室灯を確認すると同時に

指令器もどんなものが付いているか興味深く

観察したのでした。

 

と言うのは、その当時側面に方向幕を付けていた

のは3000系のみで、しかも3060Fと3062Fのみ、

行先が多様に記述されている幕を使用していて、

それ以外の編成は内容が簡略化されたもの

だったので、指令器の内容も大いに興味があった

のでした。

 

やはり私の期待通り、指令器は従来の3000系の

ものよりも大型で、行先、種別を指令する円盤も

大型のものが装着されていて、それを確認できた

事にも心を躍らせていたのでした。

 

東二見に到着すると、暑い最中にも関わらず、

東二見車庫、工場の周辺道路を歩いて中の様子を

興味深く観察したのでした。

 

当時はまだ700型の廃車体が数多く存在

(倉庫、職員詰所などとして活用)していて、

そんなものを観るのも楽しみの一つでした。

 

帰りは山陽電鉄初の高性能車 2000F3連

に自宅最寄駅まで乗車しました。

 

その年の3月に2000Fの2000、2001の客扉が

それまでの鋼製のものからステンレス製の新しい

ものに交換されていて、外側は車体と同じ色に

塗装されていましたが、車内は無塗装だったので、

ステンレスの地肌の銀色で、そんな変化を観るのも

当時の私は楽しみだったのでした。

 

今思い出しても、本当に私の心躍る、楽しい時間だった

なあ、と感じます。

 

あの頃は山陽電鉄のみならず、日本の鉄道界の

特に車両の面では本当に興味深い、

私にとっては天国のような状況でした。

 

出来る事なら永遠にあの頃を繰り返し繰り返し

過ごす事が出来たらどんなに幸福だろうと思います。

 

そんな事を想ってしまう、

私の楽しかった中学2年の夏休みの思い出

について書かせて戴きました。

 

でも夏休み初日以外にも、この年の夏休みは

私にとって色んな意味で正にセンセーショナルな

出来事が一杯起こったのでした。

 

その辺はまた機会があれば書いてみたいと

思います。ニコニコ

心地よく眠れそうです。

 

ここ数日、寝つきが悪かったのですが、

今日ある場所へ行って気持良くしてもらったので、

身体各部の疲労がほぐれていると思います。

 

本当は先月同様、その前にリハーサルスタジオで

ドラムの個人練習をしたかったのですが、

スタジオの予約が詰まっていたため、

出来ませんでした。

 

でも日頃の疲れが蓄積しているから、

やはり行って良かったと思います。ニコ

 

 

前回のブログで私のあまりパッとしない

ドラマー元年の事を書いたのですが、

ベーシストが停学処分になって学園祭の

出演こそ出来ませんでしたが、

その審査の時の演奏を聴いていた先輩の

Oさんから私のドラムを絶賛して戴いて、

その次の年はOさんのバンドでドラムを

叩く事になったり、音楽の先生からも私の

ドラミングを評価してもらえて、

その先生が携わっていたアマチュア劇団の

ミュージカルのバックバンドのドラマーとして

抜擢してもらったり、結構ドラマーとして

良い事が沢山あったのでした。ニコニコ

 

でもそれがその後もずっと継続しないのが、

私と言う人間が今一つパッとしない理由

なのですねえ。ショボーン

 

とは言え、これからも可能な限りドラムの腕は

磨いて行きたいと思います。