あれは昭和55年8月のある日、

私が中学3年の夏休み中でしたが、

一人で近鉄南大阪線に乗りに行きました。

 

近鉄南大阪線に乗車するのは、

その日が生まれて初めてでした。

 

目的は近鉄高性能通勤車の始祖となった

6800系に乗車する事でした。

 

しかも当時残り僅かとなっていた半室運転台

のまま残っている2次車に乗車する事でした。

 

期待と不安を持ちながら胸をときめかせて

近鉄阿部野橋駅の改札を入ると、

急行 吉野行 として停車していた5両編成の

列車に、見事にドンピシャで半室運転台のまま

残っている6800系2次車が連結されていたので、

迷わずその車両に乗車して、半室運転台の

様子が良く見える位置の座席に座りました。

 

その当時で6800系2次車は経年20年と言う、

今で言えば比較的若い部類の車両になりますが、

当時は高経年車との認識でその車両の車内の

各部を興味深く観察したのでした。

 

今は絶滅してしまいましたが、その頃の

近鉄通勤車の車内は私好みの薄茶色のチーク模様

のデコラ板が壁面に張られて、シートのモケットは

ワインレッド色、床は濃い赤茶色、天井は無地の白色

の鋼板(ただしその後製造された6000系以降の車両は

薄緑色のコルク模様入りのデコラ板)と言う

落ち着いた雰囲気のカラーコーディネートで、

私は非常にその当時の近鉄通勤車の車内を

好んでいました。

 

しかし経年20年のその車両の壁面に張られている

デコラ板は退色が進んで艶もなく、使い古された

感じがして、半室運転台や扉のアルミベルトも

含めて、一昔前の車両やなあ・・・、と感じて乗車を

楽しんでいました。

(その後増備された車両には扉のアルミベルトは

廃止されていた為)

 

それに比較的大型のアクリル製の蛍光灯のカバーの

形状にも、初期の高性能車の雰囲気を感じました。

 

当時は昭和30年代と昭和40年代に製造された車両では、

外観は大差がなくても、車内の細かい部品などに

時代の進化を感じる事が出来て、そのような事も

私をより鉄道マニアに仕立てあげる要素になって

いたのでした。

 

阿部野橋を出発すると、急行なので古市までノンストップで

かなりの高速走行をしていましたが、今川駅を通過する際、

当時は通過線が3線あるうちの中線の1線のみであり、

曲線ポイントを通過してそこを走行しなければならない為、

通過列車でありながら低速で走行するのが印象的でした。

 

6800系は増結車であり、古市駅で切り離されてしまうので、

古市駅到着前に、車内の貫通路を通って吉野方に連結

されているラインデリア車の6075F3連の6076の座席に

座りました。

 

現在もそうですが、近鉄は伝統的に途中駅で切り離しを

行う増結車についても、ちゃんと幌で連結するようになって

いるので、このように駅に到着する前に貫通路を通って

他の車両へ移動出来るようになっていて、

その事もその当時私が近鉄を好きになって行った要素

です。

 

6076は昭和48年の製造で、

その当時まだ経年7年と言う新しい部類の車両で、

古市まで乗車した6800系とは異なり、

壁面や天井に張られているデコラ板も綺麗な状態で

まだ艶もあり、そんな中で冷房がなくラインデリア

だけが天井で懸命に外気を車内に送り込みながら

お客さんに風を送っている様が、私の心を満足

させてくれたのでした。

 

因みに6800系はラインデリアではなく、

首振り扇風機が天井に装着されていました。

 

6076に橿原神宮前まで乗車し、そこで橿原線に

乗り換えて西大寺駅まで行きました。

 

西大寺から奈良線に乗車して日本橋まで戻りました。

 

日本橋からは大阪地下鉄堺筋線に乗車して、

私が大好きだった当時はまだ非冷房の阪急3300系

に乗車して淡路まで行き、そこから梅田まで出て、

梅田から家路につきました。

 

今思い出してもあの頃は本当に私が好きな車両が

そこかしこで走っていて、私は胸をときめかせて

暮らしていた事を思い出します。

 

当時は片想いではありましたが、

同級生の好きな女の子もいて、

本当に私は幸福で充実した楽しい日々を

送っていたのでした。

 

もし神様がいて、

”あなたを過去に過ごした日に一日だけもどしてあげる”

と言ってくれたら私は今回書いた、

中学3年の夏休みに近鉄南大阪線に乗車した日に

戻してもらえたら良いなあ、と思います。

 

その時に

”あれ?今日と言う日は過去に一度過ごした事が

あるような気がするなあ・・・・・”

と私が感じてしまうおまけがついていたら面白い

なあ、と思います。

 

このブログで何度か書いている通り、

やはり私の人生は昭和54年~昭和55年頃が、

とても幸福だったなあ、と今改めて感じて

しまうのでした。ニコ

 

憶測でモノを言う事になりますが、

前回のブログの続きです。

 

5月31日にギターリストから、

もう一つ組んでいるバンドで7月にライブを

する予定で、対バンのメンバーから集客について

オーダーがあったとの事で、私宛にそのライブに

来てもらえないか、との相談内容のラインが

届きました。

 

私は、現在家庭の事情で夜の外出がその日に

出来ないかも知れないので、行きたい気持ちは

ありますが今は行けるとも行けないとも言えない、

と返事をしました。

 

ギターリストはその返信内容に納得してくれて、

それ以上はラインを送って来なかったのですが、

私の憶測として、そのライブの集客云々の事で、

メンバー間で揉めて、ベーシストが脱退に及んだ

のではないか?と考えています。

 

そうなんですねえ、私も10代の頃からドラマーとして

色んなバンドでライブ活動をして来ましたが、

集客活動が結構大変なんですよねえ。

 

まあプロのバンドでも売れていなければ、

集客に苦労をする訳ですから、

それがアマチュアのバンドとなると尚更なのですねえ。

 

特に集客についてノルマ的な事を押し付けて

来られると、正直言ってかなり鬱陶しい気持ちに

なる事は間違いないのです。

 

だから私自身も2019年1月4日に当時ドラマーとして

所属していたバンドを脱退してからは、

積極的にバンド活動をしよう、

と言う気が今一つ起きないのです。

 

ライブをやるからには集客の事を考えなくては

ならないから、バンド編成でスタジオリハーサルのみで

ドラムを演奏している方が気が楽な事は否めません。

 

今年の2月に今のバンドに所属するまでは、

私一人でソフトを使って音源を作成して、

それに合わせて私がドラムを叩いて、

また楽曲によってはドラムを叩きながらボーカルも

やると言う形式で、ワンマンライブをやる事も

検討した時期があったのですが、

じゃあ一体そのライブを誰が見に来てくれるのか?

と言う事を冷静に考えると、誰も見に来ない可能性が

高いので、やらない事にしました。

 

それでOURSOUNDSに登録して、

どこかのバンドにドラマーとして入れてもらおう、

との結論に至ったのでした。

 

しかしメンバーを組んだら組んだで、

そのメンバーもしくはメンバーの関係者から

ライブの集客について強要されるような事態になれば、

私もバンドを脱退する可能性があるので、

今回のベーシストの脱退は仕方が無いなあ、

と思っています。

 

ま、これはあくまでも私の憶測であり、

全く違う理由でベーシストは脱退したのかも

知れませんが・・・・・・・・・。真顔

 

今日、グループラインに驚きの

メッセージが!!

 

私が今年の2月からドラマーとして加入させて

もらったバンドのベーシストからいきなり、

”諸事情により脱退します!”

とのメッセージが来ました。

 

その後、今現在までグループラインにメンバーの誰も

コメントをしません。

 

私も沈黙を保っています。

 

私はベーシストの事を気に入っていたので、

願わくば脱退を思い止まって、

せめて予定している8月のライブまでは少なくとも

続けて欲しいとの想いがあるのですが、

メッセージ送信後すぐにグループラインからも

退会しているところを見ると、

意志は固くもう一緒にプレイは出来ないのだと

思います。

 

残念です。

 

5月6日のメンバーでのスタジオリハーサル以後、

ギターリストと少しだけやりとりして、

それ以外のメンバーとは全くやりとりしていなかった所、

このような事態となり驚いています。

 

きっと、私が全く知らないところで

メンバー同士で何かがあったのでしょう。

 

ギターリストとベーシストは、

掛け持ちで別のバンドでも活動をしていたみたい

だから、きっとそちらで何か嫌な事でもあったのかな、

と憶測を立てています。

 

正直な所、5月6日のスタジオリハーサルの時、

ベーシストとギターリストのやりとりを聴いていて、

少し不穏な空気を感じていたのは確かなのでした。

 

私も長年、人を相手にする仕事に携わっているから、

そういうのを結構敏感に感じてしまうのですが、

やはりこのような事態になってしまったのか、

と思わずにはいられません。

 

しかし私のスタンスとしては、

自分からこの件についてメンバーには敢えて

沈黙を保つつもりです。

 

もしかしたらギターリストから何かラインのメッセージが

来るかも知れませんが、それが来てから反応しようと

想っています。

 

この分で行くと、8月に予定しているライブも

キャンセルになってしまうかもですね。

 

それならそれで仕方がありませんが、

本当に人間同士が何かを一緒にやって行くって、

難しい事なのですねえ。

 

でも引き続きドラムの個人練習だけは、これまでと

変わらずに続けて行こうと思っている私なのでした。ニコニコ

今日は約一か月ぶりに心地よい時を

過ごす事が出来ました。

 

良かった。ニコニコ

ザ・ウッドにまつわる懐かしい会話を

思い出したので書いてみます。

 

1981年から1982年頃に、

宇崎竜童さんが司会を務めるファイティング80

と言う音楽番組がオンエアされていました。

 

その番組には当時活動していた様々な

主にロック系のアーティストが出演し、

ライブ演奏がオンエアされていました。

 

先日逝去されたドラマー 新美俊宏さんが

所属されていたロックバンド BOWWOWや、

柳ジョージ&レイニーウッド、ARB、こどもバンド

など、その当時活躍していた

様々なアーティストが毎週出演していました。

 

その中で、1982年のある日、

柳ジョージ&レイニーウッド解散後に、

レイニーウッドのメンバーを中心として

新たに活動を始めた、当時私が熱烈な

ファンであったザ・ウッドも一度だけ出演した

事があったのでした。

 

しかし残念ながらその回を私は観て

いなかったのでした。

 

翌日に新聞のTV欄を見てザ・ウッドが出演

していた事を知り、大きく後悔したのでした。

 

当時、ファイティング80をオンエアしていた

時間には他の局で モーレツしごき教室

と言う番組がオンエアされていて、

私はファイティング80に折角ザ・ウッドが

出演していた日に、モーレツしごき教室

を観てしまっていたのでした。

 

その時私は高校2年生で、学校へ行くと級友たちに

事あるごとにザ・ウッドの話をしていたのでしたが、

一緒にバンドを組んでいた級友に

”昨夜のファイティング80にザ・ウッドが出てた

みたいやねんけど観られへんかったんや、

その時は俺、モーレツしごき教室を見てしまってて、

今朝昨日の新聞のTV欄見て気付いたんや”

と話すと級友は、

”そらお前、モーレツしごき教室は観なあかんやろ、

お前は間違ってないで”

と私に返して来たので、

”そうか、やっぱりモーレツしごき教室は見なあかん

わなあ”

と言って笑いあった、懐かしい日の事を思い出して

しまいました。

 

今から思えば私は実に良い加減で適当な高校生活を

送って来ていたし、あの頃の級友との会話の内容は、

半分以上が冗談交じりの適当な会話だったなあ、

と思い返してしまいます。爆  笑

 

でもあの頃は今よりもずっと楽しい気持ちで

毎日を過ごしていた事は間違いないと思います。

 

そんな訳で、前回のブログでザ・ウッドの楽曲が遂に

You Tubeにアップされていた話を書きましたが、

その事であの頃の楽しい思い出が甦って

来てしまいました。ニコニコ