「透析を止めた日」
がベストセラーになっている。
ので、読んでみた。
前半では、NHKの男性プロデューサーの透析終了までと終了後の経過
をジャーナリストである妻が詳細に描き、透析医療者への憤懣を伝えている。
後半では、現在のこの国での透析事情をドキュメントして、問題提起している。
日本での血液透析の始まりは1960年くらいで、東大病院の人工臓器を研究していた
渥美和彦先生らのチームによる。
そのチームを指導していたのは、アメリカ・オハイオ州のクリーブランド・クリニックにてオランダ人のコルフと透析の研究と普及医療を進めていた人工臓器部門の能勢之彦先生である。
私がクリーブランド・クリニックに留学していた頃、
クリーブランド・クリニックの一角の建物内に血液透析の歴史資料館があって、コルフと能勢が作った家庭用の洗濯機を利用した初代の透析装置が展示されていた。
そこで能勢先生は留学の若手日本人医師たちと頻回に食事をし、酒もふるまって、熱い夢も語っていた。
「山中君、循環器内科医は掃いて捨てるほど世界には多くいる。だが人工臓器を開発する医者は少ない。男が生まれて生きてる限り、誰もやらないことをやってみろ」
とハッパをかけられた。
人工臓器の研究者にはならなかったものの、このアドバイスはずっと心の隅に残っていて、看取り医者のいなかったドヤ街の寿でポーラのクリニックを始めるきっかけとなった。
今朝、また寿で患者さんK66歳男性を看取った。
今年はみとりがすごく多い。
その理由は、寿が高齢化社会、多死社会のド真ん中に入ってきたことと、ポーラのクリニックの役割が病院へ周知されているためである。
Kさんは糖尿病性腎不全で3年前から血液透析を受けている。
その前は、糖尿病性壊疽にて足を切断。網膜症にて視力も悪い。
かつての仕事はトラックドライバ-。 高血圧も糖尿も放置のまま稼いでいた。
「透析を止める」
決心をし、病院に別れを告げ、ポーラのクリニックへと紹介されてきたのは
先月のこと。
<本人>
もう入院はしたくないんです、どんな事があっても。
ただ、どうして良いのかよく分からない。
30分も眠れなくて5分くらいで起きてしまう。
昼寝もあまりしないです。
横になっても暗くしても眠れない。
食べても全部下痢しちゃうんです。
尿も1日2回くらい、そんなに沢山出ないです。
糖尿が原因で右足は義足です。
とにかくしんどいです。
が、初診時の発言。
以後も弱気の発言の連発。
彼の簡易宿泊所は
ブログ「もはやドヤとは呼ばせない」で紹介したスーパ-簡宿
https://ameblo.jp/3-14-5/entry-12442024310.html
ここの夜間当直の帳場さんにナースコールをし、私に相談電話が来る日々がつづいた。
そのたびごとに、透析の再開の選択はなかった。
不幸にもKさんはわずかに自己の尿が出る腎不全であったため、カリウムの上昇もなく、
苦痛は長引き、不安も投薬にて解消されることはなかった。
麻薬の貼り薬を増やしても、命に直結することはなかった。
「せんせい、ころしてほしい」
を何度も聞かされ、そのたびごとに「もう少しだからもうすこしだから」
を繰り返した。
今朝、左心不全による呼吸困難を経て、ようやく苦痛から解放された。
よく頑張ったね。
とケアマネ、訪問看護、ヘルパーでKさんを称えた。
透析は延命治療とは呼ばない。
生命維持のための人工的治療と言える。
日本は透析大国。
国民皆保険に高額医療補助制度、透析患者は身障者1級、加えて生保患者であるKさんは
医療費ゼロ。
このブログによく書き記す、人間が生きる上で大切な三要素
居場所・生きがい・自己肯定
の3つ。
家族と連絡を絶った66歳の、居場所のない誰のために生き続けるわけでもない、身障者・生保受給者で、年間600万円の透析費を国から補助されて生きつづけなければならないKさんの苦痛は壮絶なものであったに違いない。
医療の進歩とは?
それよって生き続ける意味とは?
親友の透析クリニック院長に聞いたことがある。
「生まれ変わったらまた透析医になる?」
→「ぜったいならない」
と即答された。患者の悲喜こもごもを目の当たりにし続けてきた長年の経験がそう答えさせた。
医療とは、自然の流れに竿を差し続ける究極的な介入行為である。
棹さすのはいいが、その尻拭いをかんがえないで商業的医療行為として
透析医療が繁栄普及したその結果が、この書
「透析を止めた日」
となって現れている。
Kさん お疲れ様でした。
冥福を祈ります。
