お盆休みの最終日、8月16日。

台風襲来の日に、大雨、強風の中、

立て続けに2人が逝った。

 

〇さん80歳は

7/31付けの紹介状を持って来られ8/8から訪問診療開始したばかり。

病名は 発達障害の疑い アルコール依存症 精神科入院歴*3

陳旧性脳梗塞。

今年1月にコロナ感染を契機に肺がんが発見された。

肺がんには放射線療法がなされた。

7月から食欲低下 高度脱水 食道カンジダのためかかりつけ病院への通院不可能のため、

担当ケアマネさんが、看取り前提で当院へ連れてきた。

 

めずらしく生活保護の患者さんではなく、年金にて簡易宿泊所の宿代や介護・医療費をまかなっていた。

金銭管理は簡易宿泊所の帳場さんにお任せ。家族がいないことはいつもの患者さんと同じ。

 

 

わすが一週間程度のおつきあいの慌ただしい看取り。

訪問看護へ点滴一本/日の指示で、他にはなにもすることはなかった。

デイサービスが好きで亡くなる前の日にも行きたがった。

 

想像でしかないが

この世に生まれて発達遅延ながらも働いて、

アルコールと双極性障害ながらも、入院を繰り返しつつそれでも働いて、

年金生活の独居高齢者となり、

簡易宿泊所にて生活していたが、

とうとう80歳を越え、

コロナと肺がんにて致命傷となった患者さんであろう。

 

闘いぬいた人生の最期だけ、私はおつきあいさせてもらった。

 

やせこけ、ぎょろ目、手足を屈曲したまま、仰向けで

天井を見すえていた。

まさに生きぬいた! 終わった!

と叫びそうな顔だった。

 

生活保護ではないので、

年金の残額から、

宿代、介護代、看護・医療費の自己負担代、

コンビニのつけの借金、

自分の葬儀代を支払うことになる。

懇意にしてる葬儀屋さんは

「残額で引き受ける」

と取りはからってくれた。

ので、安心して。

 

ご冥福を祈ります。

 

△さん83歳

も同日に逝った。

台風の中、〇さん終えて、帰宅したら、呼ばれた。

この人は長い、8年のおつきあい。

ずっと外来へ、ヘルパーさんが車いすで通院させてくれた。

 

外傷肝臓破裂、急逝硬膜下血腫にて気管切開歴、

右眼失明

の後に認知症。

デイサービスの職員へは

「てめ- ぶっ殺すぞ!」と恫喝。

にもかかわらず、女性ヘルパーさん達からは

「△ちゃん」

と、呼ばれて愛され続けた。

 

訪問診療に切り替えて2ヶ月。

死因は「老衰」

1例目の〇さんと同じく

食えなくなって、やせこけて亡くなった。

同じやせ方ではあるが、死に顔は△さんの方が

穏やか満足感が一杯であった。

 

おつかれさんでした。

昨日はお盆休みの前の訪問診療。

計13人と忙しい中のひとりに

〇〇さん83歳が。

 

①    アルコール依存、肺気腫 

②    →下痢・脱水・低カリウムで腰抜けてねたきり褥瘡

③    →転倒・大腿骨転子部骨折

④    救急入院 全身状態不良にて骨折は手術不能。輸血のみ施行。

⑤    →のため簡易宿泊所へ帰室

 

初めての出会いは

2013年.

当院に勤務していた看護師が、寿の街から

「路上にねころがってやせてたんで」

と車いすに乗せて連れてきた。

 

「あのな、 ことぶきの路上には一杯寝転がってるからな。

だいたいみんなアルコール依存だからな」

と笑って釘刺しつつ。

でも一期一会で。

以来11年。

 

①    にて外来に通ってくれたが、来院時は飲んでない。

訪問看護は②に導入し、少し元気になったら③が起きてしまった。

⑤にて訪問診療を開始。

毎日点滴してずいぶんと元気になった。

 

そして昨日。

目はきらきらと輝き、透明感のあるステキな目。

栄養状態貧血確認のための採血を看護師-が施行。

予定量のために2回採血を余儀なくされたが、

2回の針刺しにも、

「イイヨ~」とニコニコ。

 

とても優しい対応をしてくれた。

 

ことぶきのおじさん達は一般に、

亡くなる前に、とてもイイ人になることが多い。

 

本能的に「感謝」を感じるのだろうと勝手に思っている。

 

〇〇さんも昨日はいつにも増して

イイ人だった。

 

本能的に死を感知していたのかもしれない。

 

残念ながら私達には予見できなかったが、

長時間苦しんだ死ではないし、孤独死でもない。

それでヨシとするしかない。

 

ご冥福をお祈りします。

ずいぶん前にこのブログに紹介したずいぶん前の話。

昭和55年の夏。

 

当時17歳の患者さん、男性。ジャニーズ系イケメン。

今でもフルネームと顔までおぼえている。

 

私が26歳の新米研修医3ヶ月目の受け持ちの

急性骨髄単球性白血病。

 

バイク買ってもらって、彼女(かわいかった!)を後に乗せ、

青春まっただ中。病気になった。

 

抗癌剤のため

毛が抜けた、吐いた。 白血球は減った。

それでも彼女は見舞いに来た。

個室での加療だったので、

ホントはしちゃ行けない個室でのチュッチュ。

 

見てみぬフリをせざるをえなかった。

 

当時の化学療法は強烈な抗癌剤。

骨髄移植などなかった。

 

或日突然 肺炎になった。

急速に進行し、その日のうちに酸素テント。

それもまにあわない。

気管挿管→人工呼吸器が必要に。

しかし、研修医3ヶ月の私には気管内挿管経験が無かった。

 

上級医は学会で不在、麻酔科医にSOSしたがなかなか来てくれない。

そして、亡くなった。

今ならコード・ブルーで病院緊急対応してくれるだろうが・・・。

 

彼の死が原因で、

「循環器内科に入ろう!」

と決心した。

自分一人で救命行為ができなかったことが、悔しくてたまらなかった。

 

血を見るのがイヤで、死をみるのがこわかった

オサム君が、

カテ-テールを扱う一番血の気の多い診療科を選び、

その延長線上で単身独居者の死をみとることになる。

 

私の「転」

ターニングポイントは、なんと言っても、

この彼である。

もしも生きてれば彼も還暦だ。

酒のみながら、当時の闘病談を語りあいたかった。

 

夏になり、

こんな内科学会誌が来たら、

また思い出して書きたくなった。