ずいぶん前にこのブログに紹介したずいぶん前の話。
昭和55年の夏。
当時17歳の患者さん、男性。ジャニーズ系イケメン。
今でもフルネームと顔までおぼえている。
私が26歳の新米研修医3ヶ月目の受け持ちの
急性骨髄単球性白血病。
バイク買ってもらって、彼女(かわいかった!)を後に乗せ、
青春まっただ中。病気になった。
抗癌剤のため
毛が抜けた、吐いた。 白血球は減った。
それでも彼女は見舞いに来た。
個室での加療だったので、
ホントはしちゃ行けない個室でのチュッチュ。
見てみぬフリをせざるをえなかった。
当時の化学療法は強烈な抗癌剤。
骨髄移植などなかった。
或日突然 肺炎になった。
急速に進行し、その日のうちに酸素テント。
それもまにあわない。
気管挿管→人工呼吸器が必要に。
しかし、研修医3ヶ月の私には気管内挿管経験が無かった。
上級医は学会で不在、麻酔科医にSOSしたがなかなか来てくれない。
そして、亡くなった。
今ならコード・ブルーで病院緊急対応してくれるだろうが・・・。
彼の死が原因で、
「循環器内科に入ろう!」
と決心した。
自分一人で救命行為ができなかったことが、悔しくてたまらなかった。
血を見るのがイヤで、死をみるのがこわかった
オサム君が、
カテ-テールを扱う一番血の気の多い診療科を選び、
その延長線上で単身独居者の死をみとることになる。
私の「転」
ターニングポイントは、なんと言っても、
この彼である。
もしも生きてれば彼も還暦だ。
酒のみながら、当時の闘病談を語りあいたかった。
夏になり、
こんな内科学会誌が来たら、
また思い出して書きたくなった。