茶崖の思い出 

週末にNETFLIXでドラマ『JIN-仁-』を初めて見た。

 

主人公南方 仁がタイムスリップして江戸時代へ。

そこで外科手術やペニシリンなどの現代の医術を展開、教示、

「医とはいかなるものか?」

と当時の医師たちに体現していく。

坂本龍馬や勝海舟などとむりくり遭遇させてストーリーを展開させていく劇画フィクション。

 

TVドラマとしての「仁」は2010年前後の二年間だそうだが、これまで見たことはなかった。

制作にはロケ場所として順天堂が使われ、時代考証には医史学の酒井シヅ先生がかかわっていたことは風の噂程度に知っていた。

わずかな個人的関わりは、当時順天堂交響楽団の演奏(ビオラのエキストラ)に参加した際、

「このテーマ曲は順天堂だから特別に総譜が手に入ったんで、著作権の縛りもあり終わったら即回収します」と言われたことのみ。

 

でも、医学部3年時のゼミは「医史学ゼミ」、(単に一番楽だから選んだだけ・・・)

だった過去もあり、

「順天堂の卒業生だから、一度は・・・」と思って、この週末で一気に見終えた。

 

画中、崖の上の草はらが何度も出てくる。

そこは南方仁先生や坂本龍馬や、仁先生を慕い医学を志す女性「咲 さき」さんが何度となく佇み肩を並べて座る崖である。

その眼下には川(神田川)が流れ、そこからは江戸の町並みが一望でき、西向きの高い崖なので夕日がよく映える。

 

現在の順天堂ではこの崖を、お茶の水のがけ=「茶崖 さがい」と呼んで、

医学部の同窓会誌にも「茶崖」と命名している。

 

ドラマを見ていて、私の茶崖への懐かしい思い出をここに書き記しておこうと思った。。

 

昭和55年順天堂医学部を卒業する私は、卒業2年前の医学生時代に順天堂医院の外来で臨床実習を受けていた。

 

当時の実習は、三人ほどの学生が診察室の後ろに並び、立ったまま教授や先輩医師の診察を黙って見学する。

 

今なら「ベッドサイドラーニング」などと格好いい名前が付くのだろうが、当時の私には正直、退屈だった。

 

窓の外には、お茶の水の茶崖の景色。

 

崖の下には神田川が流れ、横を中央線と総武線が何本もの線路を走っていた。

 

オレンジ色。

 

黄色。

 

オレンジ。

 

黄色。

 

退屈な診察よりも、どうしても電車が気になる。

 

隣の同級生に聞こえない程度の声で、

 

「次、何色だと思う?」

 

「100円賭けよう。」

 

もちろん診察室の中である。

 

 

ドラマ『JIN』に出てくる仁友堂の研修生とは似ても似つかない。

 

あちらは南方仁先生を見つめ、私は退屈しのぎに電車を見つめていた。

 

あれから半世紀。

実習で隣に立ってたヤマダもヤマモトもずいぶん前に旅だっていった。

 

不真面目、テキトーなヤマナカだけは横浜・寿町で、

毎日の外来に加え、簡易宿泊所で独り暮らしをする患者さんの最期を看取ることを

なりわいとしてから22年が過ぎた。

 

南方仁先生ほど熱くはない。しかもいい加減である。

退屈な実習が早く終わることしか考えていなかったあの医学生が、

気がつけばあれから五十年、毎日ノンフィクションの世界で患者さんと向き合っている。

 

ドラマ「仁」は

茶崖から見えた景色と、とっくに忘れていたあの日の100円の勝負を思い出させてくれた。

 

今週私は72歳になる。

まだ、元気に仕事を続けられている。

ありがたいことだ。

 

南方仁先生に誇れるのは、長く第一線で患者さんと接していたこと、かもしれない。

私がはじめて聴診器を手にしたのは医学部の五年生の時だった。

その聴診器で患者さんに許可をもらって心臓の聴診をして、血圧を測った時のことを

今でもよく覚えている。

 

緊張して緊張して、どっくんどっくん。

聴診器から聞こえる心臓の音や血圧の血管音よりも、自分のどっくんの方が強いために

何がなんだか分からなかった。

その緊張感はいまでもよく覚えている。

 

昨日は順天堂大医学部3年生の二人の男子がゼミにて、

私の外来と訪問診療を一緒に体験してくれた。

 

もうこの教育活動は10年以上となる。

最初は「息子みたいなもんやな」

が、

今は 「孫みたい・・」

71歳と21歳だから全く不思議ではない。

 

彼ら彼女らに大先輩医師として伝え続けてきたのは

①     患者さんの目をみて、触りなさい。

②     カルテは患者を守るモノではなく、自分自身を防御するモノ。

患者の訴えること、医師へ伝えたいことを記載

診て触って聴いて・・5感を研ぎ澄ますこと。

これこれの所見でこの検査をしこの治療方針で治療をこうした。

という文脈がしっかりしていれば、訴訟になったとしても自分自身を護ってくれる。

 

まだ三年生なので、彼らが内科や外科を学び始めるのはあと1.5年くらい先のこと。

臨床実習をはじめるのは2年くらい先である。

 

午後の訪問診療の最後に、

大腸癌の肺転移の患者さんを訪れた。

昨年12月のレントゲンでは多発性転移。 

「末期」と見なしてもいいと言ってからレントゲンから半年が経過している。

この数日 特に体力の低下が著しい との報告を受けている。

往診で行ってみれば 相当のダウンヒルである。

聞こえるし返事もできるが、全く元気がない。

食欲もない。

暦年齢は69歳であるが、衰えて80位に見える。

 

診察してみたら聴診器で右肺の下半分の呼吸の音がない。

午前中の外来研修では彼らに、「そのうち聴診器の使い方も

大学の実習で学ぶからな」と伝えていたので、

「今日これはいいチャンス」と思い、二人に人生初めての聴診を教えた。

 

まずはイヤーピースの耳の入れ方・・どうも最近の若い者たちは音楽を聴いたりするので

ワケもなく簡単に正しい方向で入れた。

 

正常の音を知らなくては異常な音は識別できないので、

自分の胸に聴診器を当てて正常呼吸音を聞いてもらった。

頭のいい のみこみのいい二人だ。

 

そしていよいよ、

患者の胸壁に聴診器を当てさせた。

右の肺の上半分と左の肺の上半分の呼吸音(空気が肺胞に入っていく音)

に左右差が無いことが分かった。

次に、「じゃあ 右の下半分と左の下半分を比べてみよう」

の指導で、彼らは、右肺の呼吸音が消失している、診断に至った。

原因は右肺の無気肺か胸水であるが、そこまでは彼らには必要は無い。

 

必要なのは、彼らがこの瞬間を一生覚えている そのこと。

 

「患者さんに触りなさい。音を聞きなさい」

と指導続けて10年。

デジタル AI CT データがどんどん進んでいく時代。

 こういうアナログな医学教育がより一層大切になると思う。

 

いいか!

二人、そして看取りの瞬間(「おかあさーん おかあさーん」)に立ち会った先週の二人とも、

自分の五感で診察すること 忘れんなよ!

 

君たちが指導医になった時には、まず一番に「目を見ろ 触れ 音聞け」を後輩に伝えてほしい。

 

 

「おかあさーん」「おかあさーん」

 

93歳のおじいさんが簡易宿泊所○○荘の三階の自室で、朝、息を引き取っていたのをヘルパーさんに発見された。

6月19日の朝 8:30のこと。

ちょうど、年に一回の順天堂大学医学部3年生のゼミの日で、学生の二人と話しているさなかでの電話報告だった。

ゼミの内容は「医学教育ゼミ」。

教養課程で高校の焼き直しのような、数学  統計学 英語  化学などを終えて、

解剖学や生化学 生理学などの基礎医学も終了し、 さ、これからそろそろと公衆衛生や寄生虫 細菌学 病理学などの勉強が始まる学年。

「医学教育ゼミ」ではSDH(SOCIAL DETERMINANT OF  HEALTH)といって、

社会環境状況と健康 に関してのテーマを掘り下げることを主旨としている。

ポーラのクリニックでの一日研修は外来と訪問診療への帯同。

 

始まった瞬間での「死亡確認 往診」

学生二人は金曜訪問診療担当の女性医師に同行して○○荘に出向いた。

 

帰ってきた二人に「どうだった?」ときいたら、

「短時間であっさりと・・・」という内容の感想であった。

 

そうかもしれない。

亡くなってる93歳の死亡確認に手間取ることもないし、異状性も無いから、

心臓呼吸の停止と対光反射の消失を確認すれば「ハイ 終わり」である。

 

でも、10年間添ってきた我々は違う。

この間に禁煙したし、肺炎で入院もしたし、なんていってもエレベーターのない○○荘から階段を降りてあるいて通院してくれた。

 

心筋梗塞のため慢性心不全状態、高齢までのSMOKERなので、入院も複数回。

そのたび毎に帰ってくると「まだまだ元気。人生これから!」が口癖だった。

 

今回の入院は、5月。

誤嚥性肺炎と室内転倒による大腿骨頚部骨折。

肺炎は改善したものの退院時は酸素吸入を要する状態。

骨折は高齢と手術リスクのため、「そのまま」で退院。

退院日に臨時で訪室したが、

「人生これから!」はさすがに出なかった。

 

それから一ヶ月。

訪問介護 訪問看護  訪問診療を受けながらベッド上生活。

酸素チューブは鼻孔から外れていることが多かった。

 

それでも、前々日までは食べれた。

前日、食欲低下し意識レベル低下。

お話できなくなって、仰向けに臥床。

 

冒頭の「おかあさーん」二回はそのときに入っていたヘルパーさんが聞いた唯一の発語。

 

おそらく夢でも見ていたのだろう・・・。

 

男子93歳。

最期の言葉がゆめうつつの「おかあさん」二回。

 

マザコンだったのだろうか?

よほど母を愛していたのだろうか?

 

切ないような 微笑ましいような・・・

私としては順天堂の若い学生よりも複雑な心境ではある。

 

その理由は

時代の違い?

私がその域に近いから?

 

かもしれない。

 

おかあさんにあちらで無事会えますように。