Tさん77歳。
14年前に病院から紹介されてきたのは63歳の時。
脳梗塞のため右半身麻痺。運動性失語(こちらの言うことはすべて理解できるが、話すことができない)で初診。
それらを治すことなどはできないので、ポーラのクリニックでは再発防止のための内服を処方継続するのみだった。
南区の簡易宿泊所から定期的に通院搬送してもらって、内服はしっかりと維持されていた。
診療の会話での返事はすべてイエス・ノーのみに限られるので、どうしても最小限のコミュニケーションとなり、質問はこちらから勝手に想像してイエスノーのクエスチョンとなる。
一度も入院を必要とするような状況は発生せず、2026年の1月から急に痩せが目立ち始め、極端に食欲がなくなり、アイスクリームや氷菓しかはいらなくなった。
消化器系のガンかも・・・・と思ったが、 精査や入院の質問にはノーだった。
生育・生活歴)
○○市で生まれ、6人兄弟の第2子。中卒後地元で電気工。東京や大阪を鉄筋工として転々従事。結婚して二人の男の子に恵まれたが10年で離婚。別妻は子連れ再婚し、子も養子縁組のため全く交流はない。大阪西成のあいりん地区での仕事にあぶれたので、
平成20年に横浜へ。鉄筋工として寮に入り就労したが、不況で仕事はなく退寮させられ、寿へ。生活保護となった。
このころから右半身のしびれが出没をくりかえすようになったが、受診せず放置。
その4年後に完全麻痺と運動性失語となり入院となった。
当院での頚動脈エコーでも超重症な動脈硬化症がみられたので、再発予防の内服はきっちりと多めで維持、そのまま14年が経過した。
今年1月から 体重が落ち始め、食欲がなくなり、下痢が出始めた。
「大腸癌かも。。。」と思い、検査を勧めてみたが答えはノー。
点滴にはイエスで、点滴にはよく反応して、しばらくして食欲が戻ったが一瞬のみの一過性の改善現象だった。
やがて「点滴は?」にノーが出るようになり、何度聞いても頑としてノー。
「入院検査は?」にもノー。
アイスクリームやお菓子しかたべなくなり、それらの量も減っていった。
介護の人たちも心配したが、ご本人にはもう闘病とか改善の意欲とかは残されていなかった。
脳梗塞となり車椅子移動となり、意思表示をイエスノーでしかできない生活を14年も強いられたら、だれでもそんな心境になるだろうと思う。
生きるエネルギーを自然に削がれた状態はまさしく「老衰」としか言いようにない。
許されて行った採血ではどうもガンではなさそうだった。
GW明けの5/7に突然に{食べるアイスの量が増えた!」とヘルパーさんたちが喜んだので、臨時往診で見に行ったが、その表情はもう「すべてを受け入れた」感が満載だった。
耳元で「食べられるようになっんだって、よかったね」と伝えるとコックリとイエス。
その後、帳場さんが『そろそろかも・・』とLINE連絡をくれたが、5/9の朝に息を引き取っていた。
経過中苦痛の訴えはなかった。
元々無口な人だったらしい。
珍しく生き残りの兄弟の二人から帳場さんに電話連絡があったとのこと。
その二人も高齢で生活保護の受給者なので、「行けない。よろしくお願いします。」
とのことだった。
5/9の朝、出勤前に死亡確認に出向いた。
仰向け、両目はしっかりとやや左をみつめ、口は半分開けて、
今にも何かを言いたそう、そんなお顔でした。
生きることを諦めたかのようなエネルギー ロス。
「お疲れ様でした』
がまさしく一番適切なかけ言葉であった。
診断書への死因は、悩んだが「老衰」とした。
他に考えられなかった。
人生は一度っきり は皆さん全員に与えられた権利。
「みんな一回ずつね。」
である。
偉いからとか、お金持ちだから、で二回もらえる人は、歴史始まってから誰もいない。
一度だけだから、大切に大切にしたい命だと思う。
殺されたり、奪われたり、むちゃくちゃにされたり、若くして後遺症が残る病気になったり・・・・。
「二度と無い人生だから、自分の意志で自分らしく生きることを目指したい」
この患者さんを受けて、診療して、看取って、改めてこんなことを考えさせられた。
ご冥福をお祈りします。


