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ついさっきまで、息を詰めて父親らしき男の後をつけていた。そのようにして、この見知らぬ町の野球場に運ばれてきた。しかし男の姿がいったん見失われてしまうと、それに合わせるように、一連の行為の重要性が、彼の中で突然不明確になった。意味そのものが分解し、もうもとに戻らなくなってしまった。かつては外野フライをうまく捕球することが、生死を分けるほどの重大な懸案であったのに、やがてそうではなくなってしまったのと同じように。
僕はいったいこのことで何を求めていたのだろう?歩を運びながら善也は自分に問いかけた。僕は自分が今ここにあることの繫がりのようなものを確かめようとしていたのだろうか?自分が新しい筋書きの中に組み込まれて、より整った新しい役割を与えられることを望んでいたのだろうか?
違うな、と善也は思う。
そういうんじゃない。僕が追い回していたのはたぶん、僕自身が抱えている暗闇の尻尾のようなものだったんだ。僕はたまたまそれを目にして、追跡して、すがりつき、そして最後にはより深い暗闇の中に放ったのだ。僕がそれを目にすることはもう二度とあるまい。
善也の魂は今では、静かに晴れ渡ったひとつの時間とひとつの場所にたたずんでいた。その男が自分の実の父親であろうが、神様であろうが、あるいはたまたまどこかで右の耳たぶをなくしただけの無縁の他人であろうが、それはもうどうでもいいことだった。そこには既にひとつの顕現があり、秘蹟があったのだ。誉むべきかな。
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善也は眼鏡を外してケースにいれた。踊るのも悪くないな、と善也は思った。悪くない。目を閉じ、白い月の光を肌に感じながら、善也は一人で踊り始めた。深く息を吸い、息を吐いた。気分に合ったうまい音楽を思いつけなかったので、草のそよぎと雲の流れに合わせて踊った。途中で誰かに見られている気配があった。誰かの視野の中にある自分を、善也はありありと実感することができた。彼の身体が、肌が、骨がそれを感じとった。しかしそんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ。
彼は地面を踏み、優雅に腕をまわした。ひとつの動きが別の動きを呼び、更に次の動きへと自律的につながっていった。体がいくつもの図形を描いた。そこにはパターンがあり、ヴァリエーションがあり、即興性があった。リズムの裏側にリズムがあり、リズムの間に見えないリズムがあった。彼は要所要所でそれらの複雑な絡み合いを見渡すことができた。様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。彼はやがてその森を通り抜けていくことになるだろう。でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ。
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義也は黙って田端さんの手をとり、長いあいだ握っていた。胸の中にある想いを相手の手に伝えようとした。僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。その翌日、田端さんは息をひきとった。
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『神の子供たちはみな踊る』村上春樹

今回抜粋した作品は平成12年、阪神大震災をうけて発表された短編集からです。
1Q84の原型のようです。
重いテーマながらも未来への光の兆しが描かれている。
『神の子供たち』はどう感じましたか?
僕は読んだ時確かに心が震えた。大好きな村上春樹作品のひとつです。





善也は母親に手を引かれて知らない家の戸口をまわることを、とくに苦痛には感じなかった。そういう折には母親はとくべつ優しかったし、その手は温かかった。冷たく門前払いをくわされることはしょっちゅうだったが、それだけにたまに親切な言葉をかけてもらうと嬉しかった。新しく信者さんを獲得したときは、誇らしく思ったものだ。これでお父さんである神様も、僕のことを少しは認めてくれるかもしれないと善也は思った。
しかし中学校にあがってほどなく、善也は信仰を捨てた。独立した自我が彼のなかで目覚めるにつれて、社会通念とは相入れない教団独自の厳格な戒律を、そのまま受け入れていくことが現実的にむずかしくなったということがある。でもそれだけではない。いちばんの根本の部分で、善也を決定的に信仰から遠ざけたのは、父なるものの限りない冷ややかさだった。暗くて重い、沈黙する石の心だった。息子が信仰を捨てたことは母親を深く悲しませたが、善也の棄教の決意は揺るがなかった。
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男は車を降りると、あたりをみまわすこともなく、コンクリートの塀に沿ったまっすぐな道路を前方に向けて歩いていった。
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あたりには人の生活の気配はなく、まるで夢の中でとりあえずしつらえた架空の風景のようだ。
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善也にはわけがわからなかった。こんな何もない寂れた場所でタクシーを降りる理由がどこにあるのだろう?この男は家に帰るのではないのか?
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金網の向こうは広々とした野原だった。いや、ただの野原じゃない。何かのグランドのように見える。善也は淡い月明かりの下に立ち、目を凝らして周囲を見まわしてみた。男の姿はどこにもない。
そこは野球場だった。善也が今立っているのは外野のセンターのあたりらしい。
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善也はコートのポケットにりょうてをつっこみ、息をひそめ、何かが起こるのを待った。でもなにも起こらなかった。彼はライト側を眺め、レフト側を眺め、ピッチャーズマウンドの方を眺め、足もとの地面を眺め、それから空を見上げた。
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男は消えてしまったのだ。跡形もなく。田端さんがここにいたら、こう言うだろう。だからね、善也くん、『お方』は予想もつかないかたちで私たちの前に姿をお見せになるんだよ。
でも田端さんは三年前に尿道ガンで死んでしまった。その最後の数ヶ月、はたで見ているのもつらいほどの激しい苦痛の中にあって、彼は一度たりとも神を試さなかったのだろうか?この苦しみを少しでも軽減してくださいと神に祈らなかったのだろうか?田端さんにはそれを祈るだけの資格があるように善也には思えた。あれほど面倒な戒律を厳格に守って、神様と密接な関係を結んで生きていたのだから。
それにーと善也はふと思うー神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろう?



母に会ったとき、田端さんは言った。
かくも厳格に避妊をしていながら、あなたはなおかつ妊娠なさった。それも三度も続けて妊娠した。偶然の事故だと思われますか?私はそうは思いません。三度も重なった偶然は、もはや偶然ではありません。三というのはまさに『お方』の顕示の数字なのです。言い換えるなら、大崎さん、『お方』があなたに子どもをもうけることを求めておられるのです。大崎さん、それは誰の子どもでもありません。天におられる方のお子さまなのです。私はその生まれてくる男の子に善也という名前をつけましょう。田端さんの予言通りに男の子が生まれ、善也と名付けられ、母親はもう誰ともまぐわうことなく、神の使いとして生きることになった。
「ということは」と善也はおずおずと口をはさんだ、「僕のお父さんは、生物学的にいえば、その産婦人科のお医者さんということになるんだね」

「そうじゃないの。その人は完璧な避妊をしたのよ。だから田端さんがおっしゃるように、善也のお父さんは『お方』なのよ。肉のまぐわいによってではなく『お方』のご意志によって善也はこの世界に生まれたのよ」、母親は燃えるような目できっぱり言った。
母親は心からそう信じ込んでいるようだった。でも善也はその産婦人科の医者こそ自分の父親だと確信した。きっと使ったコンドームに物理的な問題があったのだ。それ以外に考えられないじゃないか。
「それで、そのお医者さんは母さんが僕を産んだことを知っているの?」
「知らないと思う」と母親は言った。「知っているわけがないわ。それっきり会ってないし、連絡もしてないから」


男は千代田線の我孫子行きの電車に乗った。善也もあとから同じ車両に乗り込んだ。
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男はやせて、生まじめそうな彫りの深い顔をしていた。どことなく医者らしい雰囲気がある。年齢も合致している。そして右側の耳たぶも欠けている。それは確かに犬に食いちぎられたあとのように見えなくもない。
この男が生物学的な父親であることに間違いはない、善也は直感的にそう思った。
しかしこの男は、僕という息子が世の中に存在することすら、おそらく知らないはずだ。そしてもし僕がここで、その事実を彼に向かって打ち明けても、簡単には信じてはくれないだろう。彼はなにしろ専門家として完璧な避妊をしたのだから。