ダニーは長く苦しい逡巡の末に、
家族とは過去の「とりかえしのつかない関係性」に繋縛されることによってではなく、
いつか全員がそれぞれの未知な可能性のうちに歩み去ることの予感によって結ばれる、
という澄んだ結論にたどりつきます(素敵な結論ですね)。
さとし君、まいさん。結婚おめでとう。
さとし君と僕は同い年です。
大阪の歯科技工学校での二年間はいい青春の思い出です。
鈴木と二人でほとんど毎朝、下宿先のワンルームにさとし君を起こしに行きました。
なかなか起きてくれないさとし君にヤキモキしながら、キッチンで洗い物をしてあげた思い出は鮮明です。さとし君の出席日数が足りたのは、おそらく僕と鈴木の努力の賜物であります。

あれから十年以上の月日が流れ、僕も鈴木も今や立派なパパです。
そして今日、とうとう野生児さとし君も晴れの日を迎え、僕達もようやくお役御免というところでしょうか?

僕の結婚式ではさとし君にスピーチをお願いしました。あの時は男気溢れるスピーチをありがとう。
今日はようやくその返杯ということで…。

僕の上の娘は今年、小学校一年生になりまして、習い事をいろいろさせているんですが。
日曜日の朝は、合気道の親子の教室に父娘二人で通っています。
今日は僕の尊敬する合気道家で哲学者の内田樹先生の言葉を紹介したいと思います。
結婚についてです。少し長いですがブログに掲載されていた文章を読ませて頂きます。

『歯科医によると、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいるそうです。
合う人は作ってもらった入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら作り直しても合わない。
別に口蓋の形状に違いがあるわけではありません。
自分の本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だから嫌だという人は、何度やっても合わない。
それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は
「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できる。多少の違和感は許容範囲。あとは自分で工夫して合わせればいい。
この話を僕は合気道の師匠である多田宏先生から伺いました。
「合気道家は入れ歯が合うようじゃなくちゃいかん」と言って先生は笑っておられました。
結婚もある意味では「入れ歯」と同じです。
自分自身は少しも変わらず自分のままでいて、それにぴったり合う「理想の配偶者」との出会いを待ち望んでいる人は、たぶん永遠に「ぴったりくるもの」に出会うことができないでしょう。
配偶者というのは「入れ歯」のようなものです。
それは「私」という自然に闖入してくる「異物」です。
このときに「合う配偶者を求める」ことよりも、「配偶者に合わせる」ことが大事です。』

最近、入れ歯作りの勉強会に行きました。
ここにいる皆さんにはピンとこないかもしれませんが、新しく作った入れ歯というものは最初は痛くて大変です。新しく買った靴が馴れるまでしばらく足が痛いのとおなじように。
そこで調整という作業が必要になります。入れ歯の痛い部分を削り取るわけですが。
その有名な歯科医師の先生は、患者から痛いと言われても、ある部分は絶対に削らないそうです。
削ったフリだけして、そのまま帰すそうです。
不思議なことに一週間後にはピッタリと入れ歯は合う、痛みもない。
患者に言われるがまま、ある部分を削ってしまうと、もうその入れ歯はピッタリこないダメな入れ歯になってしまうそうです。
本質は結婚生活にもつながるかもしれないですね。
最後に、歯科関係者の結婚式鉄板ネタをひとつ。
『夫婦とは、上下の総入れ歯のようなものである。上だけ入れても噛めない。下だけ入れても噛めない。上下揃ってはじめて噛める。だけどたまに外すとスッとする』
ふたりが素晴らしい夫婦になりますように。
ご静聴感謝致します。
では唐突ではありますが、二人の門出を祝って、心を込めて歌います。
『乾杯』
大学院ゼミは「アメリカの宗教」
おもに福音主義の歴史的展開と、それがアメリカの政治的エートスに与えた影響についてディスカッションする。
私のネタはほとんどがリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』の第二部からの受け売りである。
この話はこのホームページ日記に一度書いたことがあるけれど、なかなか興味深い話であるので、しつこくもう一度採録しておく。

『アメリカの反知性主義』第三章・「福音主義の歴史」はアメリカにおけるプロテスタント諸派の独特な宣教活動について貴重なことを教えてくれる。

高校の世界史ではぜんぜん習わなかったことなので、諸賢のために、ここに概略を記す。

アメリカン・ピューリタンの第一世代には多くの知識人が含まれていた。

彼らは切り開いた開拓地のはずれでまだ狼の遠吠えが消えないうちから、すでに大学を作り、アリストテレスやホラティウスやヘブライ語を教え始めた。

ハーヴァード大学の初期の卒業生の50%はそのまま牧師になった。

しかし、1720年に「大覚醒運動」が起こり、「学識ある牧師」にかわって、無学だが宗教的熱情に駆られた人々が宣教の前衛となる。

ウィリアム・テネントという長老派の牧師は熱情的に開拓地を遍歴して、ほとんど文化的な要素のない生活をしている開拓民たちに魂の救済を熱狂的に説いた。

テネントは説教のときに絶叫し、野獣のような怒声を上げ、夜の雪の中を発作的にのたうちまわり、それを見に集まった数千の会衆たちは狂乱状態のうちに「霊的再生」を経験したのである。

こうしてピューリタンの時代が終わり、福音主義の時代が始まる。

大覚醒運動は南部西部のフロンティアにおいて、「より原始的で、より感情的な恍惚感を強調するものに変わっていった。学識のない説教師が増え、回心の手段として、肉体的反応をあまり抑制しなくなった。つまり平伏する、痙攣する、吠えるといった動作がひんぱんにみられるようになる。」(66頁)

彼らは「ますます増えて行く、教会をもたない非宗教的な人々、教会で聖化されない『結婚』と節度のない生活、過度の飲酒、野蛮な喧嘩」と戦い、開拓民の魂を浄化する必要があったのだから、ある程度フィジカルにインパクトがある説教態度をとったことはやむをえない。

巡回説教師たちがいなければ開拓時代の「流動性の高い会衆を回心させること」は不可能だった。 (だから『ペイル・ライダー』のクリント・イーストウッドが牧師なのに気楽に銃をぶっぱなして悪漢たちを殺してしまうのは福音主義の宣教師の伝統からすれば、それほど異常なことではなかったのだ)。

福音主義の宣教師に求められたのは、なによりも会衆をひきつける話術とパフォーマンスだった。

「スター説教師」たちが続々と生まれる。チャールズ・フィニー、ドワイト・L・ムーディ、ビリー・サンディ、ビリー・グラハムと続く系譜がそれである。

フィニーは1820-30年代に活躍した説教師だが、その武器は「鋭くみつめられるとしびれるような、強烈で狂気をおびた預言者の目」であった。会衆たちは彼の説教を聴くと「椅子から転げ落ち、慈悲を求めて叫び、ひざまずき、ひれ伏した」。

もっとも活動的だったのは初期メソディストの巡回牧師たちであった(すさまじい嵐の夜には「こんな夜に外にいるのは鴉かメソディストの説教師くらいだ」という言い方があるくらいに彼らは不撓不屈であった)。

1775年に3000人だったメソディストはその80年後に信徒150万の大会派になったが、その成功をもたらしたのは何千人もの無学だが宗教的熱情あふれる牧師たちの献身的な布教活動だった。「だが、そのうち一般的な英語教育以上の教育を受けているのは、おそらく五十人もいないだろう。その教育すら受けていない者も多い。まして神学校や聖書研究所で訓練を受けたものなどひとりもいまい」とあるメソディストの牧師は誇らかに語っている。

このあとにドワイト・L・ムーディが登場する。

靴の卸業者として成功したあと、ビジネスから宣教活動にシフトしたこの人物は1873年にイギリスで活動を行い250万人を動員し、帰国と同時に名声の絶頂を迎えた。彼は無学で「彼の説教を批判する者たちがずっと言い続けていたように、文法すら知らなかった」。しかし、一分間220語語るそのすさまじい早口と大音量の説教で、巨大な会堂の聴衆を一挙に救済に導く技術においてこの時代最高のパフォーマーであった。

ムーディは「聖書以外には一冊の本も読まない」と広言してはばからなかった。学問は霊の人の敵であり、「知識なき情熱は情熱なき知識にまさる」というのがムーディの一貫した立場だった。

けれどムーディはもうテネントのように転げ回ったり咆哮したりはしなかった。かれはばりっとしたスーツで登壇し、まるで有能なビジネスマンのようにまくしたてたのである。

ムーディに続くのが19世紀末から1935年にかけて圧倒的なポピュラリティを獲得し(1914年に『アメリカン・マガジン』で「アメリカでもっとも偉大な人物」投票で第八位になった)たビリー・サンディである。

彼はジャズバンドを引き連れ、ストライプのスーツ、ダイヤのタイピン、ぴかぴかのスパッツで登場して、低俗なレトリックと曲芸あり音楽ありのステージパフォーマンスで会衆を魅了した。

彼の説教はあまりに人が集まったので、既存の教会では対応できず、しばしば「大講堂」が彼の説教のために建設されたほどである。

そうやって大量に回心させた信者から一人当たり「回心料」2ドルを徴収して、ビリー・サンディは大富豪になった・・・

ホーフスタッターの本から福音主義の歴史をながながと採録してきたのはもちろん理由がある。

「トリビアル」な知識を披瀝したいからではない。

私は「関連性のあること」にしか興味がない(@大瀧詠一)

この記述が二カ所で私の「記憶の琴線」に触れたからである。

記憶の片隅を「つんつん」とつつかれのは、ドワイト・L・ムーディが1886年にシカゴに設立した「ムーディ聖書研究所」で学んだひとりの日本人のことを思いだしたからである。

中田重治(1870-1939)が1897年から98年にかけて、ここで学んでいる。

中田は日本ではメソジストの教育を受けたのち渡米し、この聖書研究所でアメリカのコアな福音主義に触れて「回心」を遂げる。帰国したあと、メソジストを離れ、1917年、教会46を擁する「東京宣教会ホーリネス教会」を設立する。

そして連続講演「聖書より見たる日本」を通じて「キリスト再臨と日本とユダヤ人のあいだには特殊な関係があることを発見」し、聖書中に「日いずる国」とか「東」とあるのはすべて「日本」のことであり、日本こそはキリストの再臨とユダヤ民族の回復の鍵を握る「選ばれた民族」であるという理説を発表し、日本における「日猶同祖説」イデオロギーの最初の一歩を踏み出すのである。

「日猶同祖論」といってもみなさんはたぶんご存じないだろうが、「日本人とユダヤ人は同じ歴史的使命を持つ」(極端な場合は、「同じ祖先から由来する」)と説き、大正年間から第二次世界大戦まで、日本の福音主義派のキリスト者、陸海の軍人、外交官、極右の一部に隠然たる勢力をもって伏流していたオカルト・イデオロギーである。

中田重治(中野重治じゃないから、まちがえないでね)は日本民族の使命は、世界に散在するディアスポラのユダヤ人を糾合し、彼らをしてパレスチナの故地に帰還せしめ、そのようにして神の摂理を成就することにあると考えた。

「東より起こる人は向こうところ敵なき勢いで諸国を征服するとあり、東から西へ西へ、大陸に向かつてグングン伸びてゆくことを預言している。大陸にむかつて武力をもつて発展してゆくのである。そして最後に偽キリストに与する王たちを押さえつけるのである。私はいたずらに日本の大陸政策を謳歌するのでもなければ、軍部に媚びるものでもない。これも聖書の光であるから、かく言うのである。肉の考へからして日本が偉いと言うのではない。神の摂理の中にかくなつていると言うのである。神はこの民族をして、その使命を果たさしめようとして、過去2500年間、外敵の侮りを受けることのないようにしたもうた。これみな摂理の中にあつたことで、全能の神がこの日いづる国をして大陸にその手を伸ばさしめんがために、深いみこころの中にかくなしたまうことであると信じている。」(「聖書より見たる日本」、デイヴィッド・グッドマン、宮澤正典、『ユダヤ人陰謀説-日本の中の反ユダヤと親ユダヤ』、講談社、1999年、125頁)

なぜ、このようなオカルト・イデオロギーがそれなりの社会的影響力を持ち得たのかを論じ始めると本を一冊書かないといけないので、ここではこれ以上触れないが、結果的に日本の帝国主義的領土拡大を悲惨な戦争を招来することになった軍国主義イデオロギーの生成に、アメリカの福音主義の「スター説教師」がちょろっと一枚噛んでいたということは記憶しておいてよい歴史的事実であるように思われる。

思い出したもう一つの話も、だいぶ「遠いところ」の出来事だ。

ビリー・サンディは説教のあと「回心した」会衆たちを「審問室」に出頭させ、その「霊的状態」をチェックし、「霊的再生」が果たされたことを確認されると「決心カード」というものを発行した。

回心した諸君がそのあとどんな使命に従事したのか、ホーフスタッターの本には書いていない。

でも、私は回心者の「末路」を別の本で読んだような気がする。

ナンビクラワ族と暮らし始めたレヴィ=ストロースは、彼が来る五年前に同じナンビクラワ族と接したプロテスタントの宣教師たちの話を聞く。

彼らはインディアンと険悪な関係になり、投与したアスピリンで一人のインディアンが死んだあと、ナンビクラワ族の男たちはそれを毒殺されたと思い込んで、復讐を果たした。

六人の伝道団が虐殺されたのである。

レヴィ=ストロースはこの虐殺の加害者であるインディアンたちが「この襲撃の模様を楽しそうに語る」のを聞かされる。

レヴィ=ストロースの証言をそのまま引用しよう。

「私はたくさんの宣教師を知っており、その多くの者が果たした人間的な、あるいは科学的な役割を尊敬している。しかし、1930年ころに、中部マト・グロッソに入り込んでいったアメリカのプロテスタントの宣教団は、特異な種類に属していた。これらの宣教団の人たちは、ネブラスカ州や南北ダコタ州の農家の出であるが、そこで若者は、文字どおり、地獄と、油の煮えたぎる釜への信仰のなかで、育てられるのである。ある者は、保険の契約でもするようなつもりで、宣教師になった。こうして、自分たちの魂の救済については安心してしまった彼らは、それに値するために、もうなにもしなくてよいと考えたのである。職務に従事して出あったさまざまな出来事において、彼らは、反逆的な冷酷さと非人間性を示した。」(『悲しき熱帯』538頁)

手元に原文が見あたらないのだが、川田順造さんが「反逆的な冷酷さ」と訳されたのはもしかするとcruaute revoltane ではないかと推察される。だとすれば、revoltant は「反逆的」ではなく「胸がむかつくような」である。

よほどひどいことをしたのであろう。

レヴィ=ストロースはの虐殺の加害者を「とがめる気にはなれなかった」と書いている。

時代を勘案すると、この宣教団がブラジルの奥地にまで入り込み、そこで「回心」しようとしない原住民に対して「胸のむかつくような残酷さと非人間性」を示して、ついには彼らの憎しみを買って虐殺されるに至った歴程のどこかで、ビリー・サンディが何らかの役割を演じていたと推論することは、それほど当を失してはいないように思われる。

世界の歴史は不思議な「結び目」で繋がっている。

内田樹の研究室