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先週、乗ったこともない電車に乗り、降りたこともない駅で降り、歩いたこともない町を歩いて、いちばんはじめに目に入った産婦人科に飛び込んだ。看護師もお医者さんも白髪だった。おめでただよ、お嬢ちゃん、と白髪の先生は女の人みたいな口振りで言い、にっこりと笑った。緑のきれいなころにうまれるねえ。
おろそうと思っていた。だって不可能だ。父親もいない、両親に言うこともできない、私はまだ学生で、ちゃんとした収入すらない。岸田さんだってきっと困る、手術のお金だけ借りておろそうと決めていた。けれど、緑の季節に生まれると聞いたとき、その気持ちが一瞬にして吹っ飛んだ。今ここにいるだれかは私ではないんだ、と思った。この子は目を開けて、生い茂った新緑を真っ先に見なくちゃいけない。
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どうしてそんなに親切にしてくれるのか、という私の問いに千草が答えたのは、食事を終えて洗い物をしているときだった。
「親切にしてるかどうかわかんないけど、私はあんたといっしょに出ていきたいんだと思うよ。閉じこめられたような場所から、もっと違うところに出ていきたいんだと思うよ」
皿を洗っていた千草はいきなり言い、なんのことか一瞬わからなかった。
「どこを出ていくの?」
ようやく千草の言葉の意味を理解し、そう訊くと、濡れた皿を私に手渡しながら、
「今、いるところ」と千草はぽつりと答えた。
「そういう意味では、あなたのことを利用しているのかもね。ひとりじゃ出ていけないけど、あんたといたら出ていけそうな気がする。正直言うと、あんたに会ってそう思ったの。あ、この子となら、私出ていけるって。ずっと抱えてるものを手放すことができるって。会えば会うほどそう思うんだ」
ふうん。私はできるだけ興味なさげに相づちを打ち、渡された皿を拭き続けた。千草の言っていることは理解できた。理解できて、そして思っていた。そんなの無理だよ、と。あんたがどう思おうと勝手だけど私は出ていけないし、私といるかぎりきっとあんたも出ていけっこないよ、と。思った通りを言葉にしないほどには、私は千草を好きになっていた。
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いつ会えるかな。えりちゃんにあいたくて、おかしくなっちゃうよ。
とあった。会えないと忘れるのではなく、おかしくなってしまうのか。私だって会いたくないわけじゃない。会いたい。岸田さんに会いたい。頭を撫でてもらって強く抱きしめてもらって恵理菜が好きだと言ってもらいたい。でもきっと、会えなかったからだけでなく、会い続けていたら私はおかしくなる。あの人みたいになりたくないのだと、でも岸田さんに説明することなんかできやしない。岸田さんは、私が、かつて全国に知れわたった有名な事件の当事者であることを知らない。
あのとき誘拐された子どもだと知らない。やっとここまできたのだ。自分の足で、自分だけの力で。
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「あなたは子供のころ、世界一悪い女に連れていかれたの」それまで、父にも母にも、両方の祖父母にも言われていたことが、そのときすとんと、隅々まで理解できたのだ。何もかもつじつまがあった。おかしいと思っていたことの理由がわかった。私は遠い国の王女なんかじゃなかった。あの家こそが私の家なのだ。父が私を知らない子どものように扱うのは、母が怒鳴ったり泣いたり夜にいなかったりするのは、「あの事件」のせいだ。あの事件、いや、私の記憶にかすかに残るあの女こそが、私たちの家をめちゃくちゃにしたのだ。今まで友だちがひとりもできなかったのも、体育の時間だれも私と組んでくれなかったのも、家の中がめちゃくちゃなのも、私が強い罪悪感にさいなまれるのも、ぜんぶ、ぜんぶ、私でなくあの女のせいだ。
聡美ちゃんちの薄暗い部屋でビデオを見ながら、数え切れない「もし」があふれかえった。もしあの女がいなかったら私たちはふつうの家族だったはずだ。もしあの女がいなかったら父も母も私をふつうに愛しただろう。もしあの女がいなかったら友だちが見えない壁を作ることもなかっただろう。もしあの女が、もし、もし、もし。
まるで世界がゆっくりと反転していくようだった。世界一悪い女。父と母が言っていることが正しいと、このとき私ははじめて知った。
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私が憎み恨んだのはただひとり、私からことごとく「ふつう」を取り上げてしまったあの女だった。
去る日曜日。台風に見舞われながらも友人の結婚式が無事に執り行われ、僕もスピーチ&弾き語りの大役を果たしてホッとしているところ…。
助手席から、嵐の過ぎた瀬戸内の美しい夕暮れの風景を眺めていると、『八日目の蝉』のシーンが浮かんできました。あれは小豆島だったけど。
なぜだか知らないけど瀬戸内の風景って僕の琴線に触れる。日本海には厳しさがあり、太平洋には雄大さを感じる。瀬戸内海の穏やかな海はなんだか落ち着く。海の向こうに人の気配を感じるからかな。
そんなわけでいってみましょう!グッときたフレーズ抜粋シリーズ‼著作権?そんなもん知らん‼


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「ね、何も訊かないんだね。なんで?」
「なんでって、覚えてないから何を訊いていいかもわからないし」
「覚えてないんだったら、思い出したいって思わない?」
「何をですか?その、ナントカホームのこと?」
「ホームのことだけじゃなくて、もっと、全部。私はそうだったの。私は私の知らないことを知りたかった。エンジェルホームとはなんだったのか、母はなんであそこに入ったのか、毎日私はどんなふうに暮らしていたのか、知らないことを知りたいし、忘れてることを思い出したかったの。私、なんで?ってずっと思ってた。なんで私は普通のうちで普通に育たなかったの?あそこで育ったことに、なんか意味があるの?ないの?なんで私だったの?って。それを知りたかったんだよね」
知らないことを知り、忘れたことを思い出してなんになるー心の中でそう思いながらも、私は笑顔を作る。
「それで、ひょっとして、ホームにいたひとをこうして全員さがしあてて、話しをしてるんですか?」
「知れば知るほど、なんで?って疑問符は増えるばっかだったけど」
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