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「公園で、おなかに子どもがいるってわかったとき」
遠くから自分の声が聞こえた。だれかほかの人の声みたいに聞こえた。
「おろそうって思ったの。岸田さんには頼れないってわかってたし、いろんなことが無理だって思った。母親になりたいなんて、思ったこともなかったしね。おろすことも、べつにこわくなかったんだよ」
うん、と小さく千草がうなずく。
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「病院に調べにいったときも、その場で手術の日取りを決めるつもりだった。だけどね、千草、おじいちゃんの先生がね、子どもが生まれるときは緑がさぞやきれいだろうって言ったの。そのとき、なんだろう、私の目の前が、ぱあっと明るくなって、景色が見えたんだ。海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて大きい景色が見えた。それでも私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかにみせる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことのあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ」遠くから聞こえる声は、まるで自分自身をなぐさめるみたいに響いた。
「もし、そういうものぜんぶから私が目をそらすとしても、でもすでにここにいるだれかには、手に入れさせてあげなきゃいけないって。だってここにいる人は、私ではないんだから」
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海は陽射しを受けて、海面をちかちかと輝かせている。茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面で光は躍っている。ー終り。
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「変な施設で育ったこと、ずっと負い目だった。選んだわけじゃないんだし。でもさ、あんたが妊娠してから考えたんだ。あそこでは大人はみんな母親だった。好きな人も苦手な人もいたけど、全員母親だった。ふつうの子供には母親は一人しかいないのに、私はあんなにたくさんの母親を持ったことがある、だからきっと、あんたが子どもを産んだら、私も母親その二になってあんたの手助けができるに違いないって。男の人を好きになったことも好かれたこともないけどさ、でも私にだってきっとうまくできるって、そう考えたんだ。」
そこで言葉を切り、大きく深呼吸して、千草はつぶやいた。
「私、自分が持っていないものを数えて過ごすのはもういやなの」
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「前に、死ねなかった蝉の話をしたの覚えてる?七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉の方がかなしいって、あんたは言ったよね。私もずっとそう思っていたけど」千草は静かに言葉をつなぐ。
「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目をとじてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ」
秋に千草と見上げた公園の木を思い出した。闇にすっと立っていた木に、息をひそめる蝉をさがしたことを思い出した。あの女、野々宮希和子も、今この瞬間どこかで、八日目の先を生きているんだと唐突に思う。私や、父や母が、懸命にそうしているように。
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泣く母、動けない父、うつむく妹を見て、私はひどく冷静な気持ちで思う。ああ、そっか、そうだよね。なんで私だったのかそれを抱えて過ごしてきたのは私だけではなかったんだ。なんで私が事件に巻き込まれたのかと、ずっとそう思っていた。でも本当の問いはそうじゃない。なんで私が私だったのか。なんで「私」を引き受けることになったのか。父も母も、妹もきっとずっとそう思ってきたんだ。なぜ父親になんかなったのか。なぜおれは帰ってきた娘から目を逸らすのか。なぜ私はこの子に不安定を見せてしまうのか。なぜおれはすべてに背を向けてしまうのか。なぜ私はすぐ逃げ出してしまうのか。なぜ私には突然姉ができたのか。なぜ私はこの家の子だったのか。なぜ私はこんなふうにしかできないのか。父らしからぬ父、母らしいことのできない母、いつも気を使っていた妹、そして全てを憎むことで自分を守ってきた私。「こんなはずではなかった」と思う場所から、一歩も踏み出せなかった私たち。好きや嫌いではなく、私たちがどうしようもなく家族であったことに、私は今気づく。
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