善也が17歳になったときに、母親は彼の出生の秘密(のようなもの)を打ち明けてくれた。もうそろそろ善也もそれを知ってもいい時期だものね、と母親は言った。
「まだ十代のころ、私は深い闇の中に生きていたの」と母親は語った。「私の魂はできたての泥のように混乱して、乱れていた。正しい光は暗闇のうしろに隠されていた。それで、私は何人かの男の人と愛もなくまぐわった。まぐわいのことはわかるわね?」
わかる、と善也は言った。性的なことになると母親はときどきひどく古風なことばを使った。彼はそのときにはもう、数人の女性と「愛もなくまぐわって」いた。
母親は話しを続けた。「最初に孕んだのは高校二年生のときだった。そのときはそれがとくに大事なことだとも思わなかった。友だちの紹介してくれた病院に行って堕胎手術をしてもらった。産婦人科の先生は若くて親切な人で、手術のあと避妊について講義をしてくれた。堕胎は身体にとっても心にとっても良い結果を及ぼさないし、性病の問題もあるから、必ずこれを使うようにしなさいと言って、新しいコンドームを一箱くれた。
………………
話せば長くなるんだけど、それから半年くらいあと、ちょっと不思議ないきさつがあって、私はそのお医者さんと、まぐわうようになったの。彼はそのとき30歳で、まだ独身だった。話は退屈だったけど、正直でまっとうな人だった。右の耳たぶが欠けていて、それは幼い時に犬に食いちぎられたためだった。道を歩いていたら、見たこともない大きな黒い犬が飛びかかってきて、耳を噛みちぎったんだって。………
私は彼の半分しかない耳だって好きになった。仕事熱心な人だったから、ベッドの中でも避妊の講義をした。いつどのようにコンドームをつけて、いつどのようにはずせばいいか。文句のつけようのない見事な避妊だった。それなのに私はまた孕んでしまった」
母親は恋人の医者のところに行って、自分が妊娠しているらしいことを告げた。医者は検査をして、それを確認した。しかし自分が父親であることは認めなかった。僕は専門家として完璧な避妊をした、と彼は言った。となると、君がほかの男と関係を持ったとしか思えない。
「私はその言葉を聞いてものすごく傷ついたの。怒りで体が震えた。私が傷つく気持ちはわかるわよね?』
わかる、と善也は言った。
「彼と付き合っているあいだ、ほかの男とは一切まぐわいをしなかった。それなのに彼は、私のことをただのふしだらな不良娘だとしか思っていなかったのね。それっきり二度と彼には会わなかった。堕胎手術も受けなかった。このまま死んでしまおうと思った。もしその時、田端さんがふらふらと道を歩いている私を見かけて声をかけてこなかったら、きっと私は大島行きの船に乗って、デッキから海に飛び込んで死んでいたと思う。死ぬのはぜんぜん怖くなかったから。もし私がそこで死んでいたら、もちろん善也はこの世に生まれてこなかったわよね。でも田端さんの導きのおかげで、私はこのように救われたの。ようやく本物の光を見つけることができた。そしてまわりの信者さんたちの助けをかりて、善也をこの世界に産み落としたの」





















善也には父親がいない。生まれたときから、彼には母親しかいなかった。善也のお父さんは『お方』(彼らは自分たちの神をそういう名で呼んだ)なんだよ、と母親は小さい頃から彼に繰り返し言い聞かせていた。『お方』だからお空の上にしかいられないの。私たちと一緒に住むことはできない。でもお父さんであるその方は、いつも善也のことを気にかけて見守っていらっしゃるのよ。
善也の子供時代の「導き役」をつとめた田端さんも同じことを言った。
「たしかに君にはこの世界のお父さんはいない。それについてあれこれとつまらないことをいう人だって世間にはいるだろう。残念なことだけれど、世間の多くの人の目は曇っていて、真実の姿がうまく見えないんだ。でもね善也くん、君のお父さんである方は世界そのものなんだ。君はその愛の中にすっぽりと包まれて生きているんだ。それを誇りに思って、正しく生きなくてはいけないよ」
「だって神様はみんなのものでしょう?」と小学校に入ったばかりの善也は言った。
「お父さんというのは、一人ひとりにべつべつについているものじゃないの」
「いいかい善也くん、君のお父さんであるその方はいつか、君だけのものとして、君の前に姿をお見せになる。予想もしないようなときに、予想もしないような場所で、君はその方にめぐり会うことができるだろう。しかしもし疑いの心を抱いたり、信仰心を捨てたりしたら、がっかりして永遠に君の前には姿を見せられないかもしれない。わかったかい?」
「わかりました」
「私の言ったことをずっと覚えていられるね?」
「はい、覚えています。田端さん」
でも正直なところ、善也にはうまくのみこめなかった。自分が「神の子」というような、特別な存在だとは思えなかったからだ。どう考えても、自分はどこにでもいるような普通の子供だった。というよりむしろ「普通より少しばかり下の場所にいる」子供だった。目立つところもなかったし、しょっちゅうへまをしていた。
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彼は寝る前に、父親である神様にお祈りをした。いつまでも変わることなく信仰心を堅く持ち続けますから、うまく外野フライがとれるようにしてください。それだけでいいんです。ほかには(今のところ)何も求めません。もし本当に神様が父親であるなら、それくらいの願いは聞き入れてくれてもいいはずだった。でも願いはかなえられなかった。外野フライは彼のグローブからこぼれ続けた。
「善也くんそれは『お方』を試すことだ」と田端さんはきっぱりと言った。
「祈るのは悪いことではない。しかし君はもっと大きなこと、もっと広いことについて祈らなくてはならない。具体的な何かについて、期限を区切って祈るのは、正しいことではないのだよ」
























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神様のことで母親を思い出した。水が飲みたくて、母親を呼ぼうとしたが、声を出しかけてから、ここには自分しかいないことに思い当たった。母親は三日前、ほかの信者さんたちと関西に出かけた。まったく人さまざまだな、と彼は思う。母親は神様のお使いのボランティアで、息子は超重量級の二日酔いときた。起きあがれない。左目さえまだ開かない。誰とこんなに酒を飲んだんだっけな。ぜんぜん思い出せない。
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勤め先は出版社だったから、彼のような若い社員でも多少の遅刻は大目に見てもらえた。そのぶん残業すれば仕事の帳尻は合う。しかし午後になってから出社すると、さすがに上司にちくちくと嫌みを言われた。嫌みは聞き流せたが、就職を紹介してくれた知り合いの信者さんに迷惑をかけることは避けたかった。
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その夜の十時半ごろ、帰宅の途中、霞ヶ関駅で地下鉄を乗り換える時に、彼はその耳たぶの欠けた男を目にした。年齢はおそらく50代半ば、髪は半分白くなっている。
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善也は迷いもなく、あとをついていった。気がつくと喉の奥が古い革のように乾いていた。

善也の母親は43歳だったが、30代半ばにしか見えなかった。顔立ちは端正で、いかにも清楚な感じがした。粗食と、朝夕に行う激しい体操のせいでスタイルはきれいに保たれ、肌は艶やかだった。おまけに善也とは18歳しか年が違わなかったからしょっちゅう姉と間違えられた。
それに加えて彼女には母親としての自覚が希薄だった。あるいはただ単にエキセントリックだった。善也が中学校にあがり、性的な感心に目覚めてからも、平気で下着姿で、ときには全裸で、家の中を歩き回った。寝室はさすがに別だったが、夜中にさびしくなると、ほとんどなにもつけない格好で彼の部屋にやってきて、布団の中に潜り込んだ。そして犬か猫のように、善也の身体に腕をまわして眠った。母親に邪気の無いことはよくわかっていたが、そんなとき善也の心は決して穏やかではなかった。勃起していることを母親に悟られないために、彼はひどく不自然な姿勢を取らなくてはならなかった。
母親と致命的な関係におちいることを恐怖するがゆえに、善也は手軽にセックスの相手をしてくれるガールフレンドを必死になって探し求めた。そのような相手が身近に見つからない時期には、意識して定期的にマスターベーションをした。高校生のうちから、アルバイトをした金で風俗店にまで通った。そのような行為は、余った性欲を処理するためというよりは、むしろ恐怖心から発したものだった。適当な段階で家を出て、一人暮らしを始めるべきだったのだろう。善也もそれについてはずいぶん思い悩んだ。大学に入ったときにも考えたし、就職したときにも考えた。しかし結局、25歳の今に至るまで、家を出ることはできなかった。一人で放っておいたら、母親が何をしでかすかわかったものではないというのも、理由の一つである。善也はこれまでに何度となく、母親がその突発的で往々にして破滅的な(そして善意に満ちた)思いつきを実行に移すのを、全力を尽くして阻止してきたのだ。
それから、もし今ここで突然自分が家を出ると言い出したら、おそらくひどい騒ぎがもちあがるはずだ。善也といつか別に暮らすことになるかもしれないなんて、彼女は一度たりとも考えたことがないはずだ。13歳になって、自分が信仰を捨てると宣言した時、母親がどれほど深い悲嘆に暮れ、取り乱したか、善也は今でもよく覚えていた。半月間ほとんど何も食べず、口をきかず、風呂に入らず、髪もとかさず、下着も替えなかった。生理の手当さえろくにしなかった。そんなに汚く臭くなった母親を目にしたのは初めてのことだった。それが再現するかもしれないと想像しただけで、善也の胸は痛んだ。