「全力で逃げる」ことがイジメに対する現実的な対策ではないか?と過去のログで書いたが。
もう少し掘り下げてみようか。
トムの家はお嫁さんの実家のすぐ近くです。徒歩3分。義兄家族も近くて、週に一度はワイワイと集まってみんなで晩ごはんとなります。
イジメの問題についても話題に上がります。
「家庭がシェルターとなって子供の避難場所になるべき…」とここまでは合意形成ができるのですが、「逃げる」ということに関しては意見が別れるところなのです。
イジメに対する異なる選択肢としては「闘う」があります。
これは強力なロジックです。親としてイジメ加害者には断固戦いを挑む。一時避難としての逃げるは良いが、ずっと逃げ続けるのはダメだ。逃げグセがついてしまったら、その後の人生で事あるたびに逃げてしまう。引きこもったまま社会に出られないことも考えられる。
一度逃げて、違う環境でまたイジメられたら?また逃げる?イタチごっこでは経済的にも続かない。
どうでしょうか?
確かに現実的で論理的です。まさにその通りかもしれません。
しかし僕は違和感を感じる。違和感の正体は視座の違いです。
「闘う」ロジックは大人目線の考え方ではないだろうか?
「闘う」ことによって満足感を得るのはその親だけではないのか?
親の戦場は一過性のもの、スポットで戦うだけなのだ。
子供が生活する全ての空間で親がその子を守り切ることなど出来はしない。
四六時中子供がイジメられないようにくっついていることなど物理的に無理。
万一親が子供にくっついていたとしたら、そのこと自体が好奇の対象となりひいてはイジメにつながる。
確かに永遠に逃げ続けることは現実的に不可能だが、現実的に考えて、どこの環境でもイジメられて、どこでも排除される確立はどれくらいのものか?
『永遠に逃げ続けることはできないよ』といっても、現実的にはその『永遠』はないだろう。
ある場所でその子が受け入れられなくても、その子を受け入れる環境が他の場所には絶対にあるし。『受け入れない環境』よりも『受け入れる環境』のほうが数字的には多いはずだ。
『永遠に逃げなければ…』と思う裏には『この子はダメだからどこの環境も受け入れてもらえない』という極端な思い込みが横たわっているのではないか?
そして「イジメのたびに引っ越しを繰り返したりしたら、お金がもたない」という現実的な不安の裏には、突き詰めると『子供の福祉より、お金が大事』という市場経済至上主義的な観念がじわりと浸透している。
僕は「逃げる」ことはやはり必要だと思う。
ひとつのチャンネルがだめになっても、きっと他のチャンネルの方が多いに決まってる。
ヒューマニズムをいま一度信じてみよう。
「逃げる」ことは恥ずかしいことじゃない、次の扉を開きにいこう。
親はそのサポートを全力でしよう。子供時代は俯瞰で物事を見ることが出来なかった。大人になった今、広い世界が見えてるはずだ。いろんな扉を探しに行こう。
この世界は素晴らしいと大人が真剣に子供に語らない限り、きっとイジメはなくならない。
一つしかないこの世界を信じてみようか。僕は自分に言い聞かす。


ある媒体で、「いじめ」についてコメントした。それは昨日のブログに書いた通り。
それについて追加質問が来たので、これも追記として書き留めておく。

Q: 学校という場は社会の雰囲気とは切り離されたものではなく、一定程度の影響を受けていると思います。現実に、リストラが激しくなる一方ですし、1分1秒ごとに自己成長を求められる息苦しい世界になりました。この状況にあって、学校だけを過度な競争社会から切り離してある種のユートピアにすることは可能なのか、それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。この点はどう思われるでしょうか。

A: 学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。
ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされておりました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたのです。

学校の歴史的使命は、何よりもまず「子供を大人たちの暴力から守る」ことでした。それは今も変わりません。

子供を幼児期から実社会の剥き出しのエゴイズムの中に投じると、どのように悲惨な結果を生じるかは、マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポートを読むとよくわかります。

子供を心身ともに健全に育て、強者からの暴力や収奪から自分を守ることができるだけの力をつけさせるためには、彼らを一時的に世俗から切り離し、一種の「温室」に隔離することが必要だったのです。

学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません。

質問に対するお答えは、ですから「学校に競争原理を導入すべきではない」というものです。最優先するのは、「子供を暴力と収奪から守る」ということです。

「いじめ」は学校に滲入してきた「外の原理」です。
学校で子供がまず学ぶべきことは、相互支援と共生の原理です。
でも、今学校では、何よりもまずその原理を教えていると胸を張って言える教師が何人いるでしょう。
「きれいごとを言うな。社会はそんな甘いものじゃない」と言う人がいるかも知れません。その人には、毎年200人の子供が学校でのことを苦にして自殺しているという事実を「甘い」と言えるかどうか、本気で考えて欲しいと思います。

Q:また、学校の役割が市民的成熟を支援するための組織である、よき市民を生み出すための組織であるという点については全面的にその通りだと思います。ただ、戦後の教育を見た時、そういった市民的成熟の培地だった期間が本当にあったのか、と考えると、よく分からない面があります。私自身、昭和50年代後半~平成初期にかけて学生生活を送っているので、そう感じているだけかもしれませんが・・・。学校や教育委員会は次世代育成という重大な役割をなぜ忘れたのでしょうか。

A:学校が次世代の成熟した市民を育成するための場であるということを人々が忘れたのは、戦後67年日本が例外的に豊かで平和な時代を享受できたせいです。
豊かで平和な時代が続けば、社会の成員たちは共同体を維持するために身銭を切るという仕事を免ぜられます。そういう公共的な仕事は税金を払っておけば行政がやってくれる。個人はただ自己利益の追求と、「自分探し」とか自己実現とかいうことに専念していればいい。
だから、日本から「大人」がいなくなったのは、平和のコストだと私は思っています。
でも、あまりに長く続いた平和と繁栄のせいで、ついに日本社会から「大人」らしい大人がほとんどいなくなってしまいました。自分のことしか考えない幼児的な市民ばかりになってしまった。
自己利益よりも公共の福利を優先的に配慮する「大人」が一定数いなければ、社会は保ちません。
今の日本のすべての制度劣化は「大人がいなくなった」ためだと私は思っています。
でも、今のような危機的状況が続けば、どこかで誰に言われなくても、「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者たちが散発的に出てくるはずです。

それは自分のまわりで「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言えるよう若者というかたちで現れるはずです。(そのような若者は年齢がどうであれ、もう「子供」ではありません。それは「青年」と呼ぶべき存在だろうと思います)。

そのような若者たちを支援する体制がいまの学校には存在しませんし、教育行政もそのような若者の育成には一片の関心も持ちません(彼らが欲しがっているのは、「グローバル人材」のような「能力が高くて、賃金の安い、規格化された労働者」だけです)。

子供が大人になることを、この社会では誰も求めていないのです。

そんな社会で、有形無形の無数の抑圧をはじきかえして、「やめなさい。それは人間として恥ずかしいことだ」ときっぱり言えるためには、どれほどの勇気と決断が要るか。

学校の教員や教委を「いじめる」暇があったら、そういう若者たちの登場をどうやったら支援できるのか、私たちはそれについて考えることに限られた資源を投じるべきではないのでしょうか。


日時: 2012年07月13日 10:32 | パーマリンク
ある媒体から、大津市のいじめについてコメントを求められた。
書いたけれど長くなったので、たぶん半分くらいに切られてしまうだろう。
以下にオリジナルヴァージョンを録しておく。

今回の事件はさまざまな意味で学校教育の解体的危機の徴候だと思います。

それは学校と教育委員会が学校教育をコントロールできていないということではなく、「コントロールする」ということが自己目的化して、学校が「子供の市民的成熟を支援する」ための次世代育成のためのものだということをみんなが忘れているということです。

私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。

子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。

であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。

だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。

周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。

そのために、いまの子供たちはさまざまな工夫を凝らしています。「いじめ」もそこから導き出された当然の事態です。

「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。

生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。

「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。

そういう社会環境の中で、「いじめ」は発生し、増殖しています。

教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは、彼らもまた「業務を適切に履行していない」がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ、教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも、隠蔽できなかった。

ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。

私はだから学校や教委を免罪せよと言っているわけではありません。責任は追及されなければならない。でも、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になり、子供たちを市民的成熟に導くという本来の目的からますます逸脱してゆくだろうという陰鬱な見通しを語っているだけです。