「“恥”に関する普遍的構造」についての一考察

 

白石潔

 

 

1.はじめに、

 

 “恥”に関する基本的な考察は、全ての歴史・風土・叡知を超えて不可避的に見出される精神性の次元に必然的に現われる“個々人が意識せざるを得ない精神の現象である”。この事実を認識できることによって、「個々の“言語的な次元”で意識される」という、人間主体が他者との関係構造で引き起こされる精神的様相が、ラカンの提示した“言葉を喋るフロイト的な無意識なる主体”として抽出でき、社会的な次元に見出される人間の間主観的構造に生きている体験に繋がる。その間主観性の精神力動は、“社会心理学的次元の様相(=重度の自閉症者にも、ある意味では、かなり大きな要素とも考え得る可能性も否定はできない?)”として、我々は考えることが出来る。

 “恥”というシニィフィアンが、社会文化的次元に在る舞台に、構造として登場するや否や、“恥ではない次元にある精神世界は何か?”という問いの形式的構造が必然的に産み出される。この論理的な必然性は、シニフィアンの連鎖次元の機序が潜在的な論理的精神力動として、まず、フロイトの第一トピックス(=場所/経済/力動)の構造式で見出されることに為る。と、同時に、「フロイトの無意識の科学」によって理解できる、「リビドーによる無意識の動態」が、第二トッピクス(=エス/自我/超自我である三要素の構造的動態)で、さらに、明確になるのである。

 後述することになるが、このフロイトの無意識の科学の構造的次元に見出される精神力動の様相に、<言葉をしゃべるフロイト的無意識の主体>が、フロイトの第一トピックスに保障され、<去勢(=不可能)の受容>を可能にし、<現実原則を自由に生きることを不可能にしている理想自我>を葬り、<個々の主体が、可能な限りの可能性を生きている自我理想>こそが、<“恥”に被爆することが有りえない“自由な在り方”>へ導いてくれる。

 この論理的な構造を前提に、「恥の構造次元にある精神力動」を明確にし、「恥の病理」を抽出することにする。

まず、“恥”についての考察に必須になる三つの要素の理論的次元を素描し、論を進めていくことにする。

 

2.プレフィギュラッション

 

①    フッサールの間主観性と意識の指向性の次元に在る精神病理構造にある要素群の普遍的理解の必要性。

 

・人間にとっての意識とは、「ヘーゲルの精神の現象学」で表現されている「自己意識の原本」に由来している。

 

・フッサールは、人間の意識を、「主・客の構造の次元」に見出される、「主体と客体との関係に生じている意識」を、「何かに注がれる意識」とし、この様相を「意識のアンタンショナリテ(=指向性)」という間主観の精神現象のベクトル次元に出現する意識として捉えた。

 

・哲学における客体とは、ドイツ語でDas Dingと表記される次元に在るもので、論理学的には、自己意識の起源に由来する客体の総体を抽出することが出来る。

 

・ヘーゲルのDas Dingは、原本・起源的にはDingそのものであるが、フッサールは「人間の意識主体としての原本」を、「“何ものかに注がれる意識”である“意識のアンタンショナリテ(=指向性)”」として捉え、「間主観性(=Inter-subjectivite)」を導き出した。

 

②    フロイトの無意識の科学を構築している第一トピックス及び第二トピックスから得られる要素群と間主観性の次元に在る精神病理の様相との関連。

 

・フロイトの第一トピックスは、場所・経済・力動の三要素で成り立っており、この三要素は、個々の精神力動のエネルギーの様相だけではなく、人間の構築している社会の全ての要素群の構造の力動にも応用が出来るだけではなく、数学及び物理科学の次元にも応用できる可能性のある重要な概念である。

 

・第二トピックスでは、「人間個々の無意識の構造を、エス・自我・超自我」として捉え、「人間の精神力動の根源的な三要素の複雑なエネルギー動態と複雑な防衛機制の無意識の様相」として抽出されている。

 

・このフロイトの第二トピックスによって、赤ん坊が乳房という部分対象を離乳によって喪失し、成長・発達を経ながら自己を確立していく自己同一性の核になっている自我の重要性が理解できる。

 

・自我は、超自我とエスとの精神力動を、「快楽原則」及び「現実原則」と共に、「葛藤」として体験していく。

 

・自己同一性の確立に至るまでの過程で、「自体愛⇒自己愛」の精神力動の様相が、「快楽原則」と「現実原則」という二つの精神力動の動態として、如何に、重要であるかが理解できる。

 

③ラカンのシニフィアンの科学に見出されるトポロジー及び数理論理学の基盤として構築されている構造化過程の解明の必要性。

 

・「シニフィアンの科学」の大前提に在る絶対的な必要十分条件は、ソーシュールの構造言語学に由来するSigne=Signifiant/Signifieの構造式にある。

 

・ソーシュールの構造言語学の構造式は、記号(=signe:シーニュ)=紙の表(=signifiant:シニフィアン)/紙の裏(=signifie:シニフィエ)で示されている言語構造の三要素で、トポロジーの次元で表現すれば、「Annuras:アニュラス」という二側性の閉じた輪として抽出できる。

 

・まず、ラカンは、「フロイトの無意識の科学」を前提とせざるを得ない「コトバを喋るフロイト的無意識の主体」を、「シニフィアンの連鎖」の次元にしか見出せない「言語と主体の構造的様相」を数学的に捉え、「アニュラス」を紙の表と裏の戻し、その帯を180度捻った状態で両端を糊付けすることで導き出せるトポロジー次元にある単側性の帯である「メビウスの帯」として抽出した。

 

・次に、ラカンは、Signifie(=シニフィエ)の構造を、隠喩と換喩による比喩化された次元の構造に着目し、Signifiant(=シニフィアン)の連鎖として定義付けた。それは、紙の表と裏で構造化されている両端を糊付けすることを可能としている二側性の帯(=非メビウスの帯)である「アニュラス」を、数学的論理的方法であるデデユクッション次元の論法で、「メビウスの帯の1/3の幅での2周切断」によって、メビウスの帯と結び付いている帯として抽出することが可能であるように、論理的矛盾が生じない必要十分条件を見出している。

 

・そして、ラカンは、更に、無意識の構造を、トゥリストゥリュクチュール(=三要素構造態)である「現実界」・「象徴界」・「想像界」の三要素を「結び目の数学」の次元に見出せる「三葉結び」の特性を有している「ボロメオの輪」として可視化した。

 

・ラカンの構造論と形容できる論理過程には、フロイトの性愛発達論に起源を持つ対象喪失の重要性を視野に於いた、乳房・声・眼差し・糞便として具象化されている「対象a」という「根源的な精神のエネルギー動態の起源になる対象(=欲望の対象)」が導き出されている。

 

3.間主観性と鏡像段階

 

 “恥”とは、当然のことながら、<他者との関係で生じる精神次元に生じる“情緒体験”である>と定義できる。この精神力動の根源には、<フッサールの意識のアンタンショナリテ(=指向性)>があり、<他者に注がれる意識の段階>が想定されなければならない。この<他者に注がれる意識の根源>には、ワロンが心理学的研究で提示した<鏡像段階>があり、このワロンの鏡像段階をラカンは、フロイトの論理化を続けた<無意識の科学の要素>を研究・尊重し、精神分析の次元に還元しながら<主体の構造的確立>の<精神力動の構造的様相>として可視化を可能にした。

 フッサールの意識のアンタンショナリテ(=指向性)とは、例えば、<赤ん坊が、“自分が泣いている声に気付く体験”>が非常に分かり易いが、現象学的には、<“母親の乳房”を代表とする“知覚の対象野”に対しての“赤ん坊の意識”>と、<人間の知覚次元に出現する原初的な意識の指向性>との理解が可能になると思われる。然しながら、この原初的な意識の指向性の起源には、ヘーゲルの<精神の現象学>に記述されている<自己意識>に対する理解が必要になってくる。

 まず、フッサールの意識のアンタンショナリテ(=指向性)が、ここで取り上げられている原初的意識の指向性に関する理解が、正当性を持ち得るか?の疑問が出現する。と同時に、ヘーゲルの自己意識が、フロイトの<生の保存原理>に由来する<刺激抑制網(=防衛障壁?)>によって逆説的に構造的に洞察できる<主体の原型が、外存しているエネルギー刺激そのもの>としての<起源的原始意識>との理解の可能性を前提に、哲学的な命題を踏襲している論説過程にあると仮説を立てることが可能であると思われる。

 前者に関しての問いは、明らかに、フッサールの意識のアンタンショナリテ(=指向性)の原型である<主体と客体の関係に由来している間主観性>の<間主観性の客体に意識を注ぐ主体>と捉えることである。さらに、恣意的懐疑主義を唱えたデカルトのコギトの起源的次元とも重なり得る可能性が在り得えるのであり、次に記述する「鏡像段階」を精緻に考察することで、「言葉をしゃべるフロイト的無意識の主体の構造」の次元にこの命題の解を見出すことが可能になっていると思われる。

 このような論理的には精査が必要な理論的な哲学次元の問題の出現を自覚しながら、小生の論を進めることにすると、<ラカン理論の解明に必須の鏡像段階の理解>が必要になる。この理論の出発点は、ワロンの発見した「鏡像段階」に源があり、一見、実存的な母子関係に派生する、<ワロンの心理学的観察である>との理解に陥りかねないが、<実は、“コトバを喋るフロイト的無意識の主体”の誕生>を構造的に理解できるという利点がある。

 その様相は、第一段階で、こどもは、<鏡に映し出されている像を、“実際に、誰かが向こうにいる”と、実存している他者を認識する>という体験をしている。そして、第二段階では、こどもは、<鏡に映し出されている同じ像を、‟実際に実存している誰かがいる“という認識から“誰かの鏡に映し出された姿である”>という視覚的知覚の意識体験をすることになる。その体験が、第三段階では、<鏡に映し出されている像を、“自分自身の映し出された姿である”>という視覚的知覚の意識体験が、<知覚と対象の一致を保障できる同一視の体験>で、フロイト理論に欠かせない<現実原則の起源的様相の構造>に合致するのである。

 そして、こどもの第三段階での視覚的知覚の意識体験が保障される必要十分条件に、母親を代表とする大文字の他者(=ラカンの提示した論理的要請によって明示された)の”声“と”眼差し“がある。母親に抱っこされたこどもは、<鏡に映し出された像が、”自分が映し出された姿である“>という視覚的知覚による認識体験を、<母との眼差しの交叉により知覚認識の確認体験をし、”鏡に映し出された像は、あなたの姿で、あなたですよ“という母の声であることばで確信する>ことになる。

 つまり、こどもの社会的自己意識の獲得が、<大文字の他者の眼差しと声>によって保障された必要十分条件下で、<自己感覚→知覚同一性→自己同一性の原本>として体験されることになり、<エディプス期を経て現実原則を決定付ける、あらゆる対象に対しての自己感覚を原本とした知覚同一性の意識基盤>が出来上がるのである。ラカンが、鏡像段階に着目した次元に在るものは、<コトバを喋るフロイト的無意識の主体>の無意識の構造が、「現実界」・「想像界」・「象徴界」という三要素の精神力動であり、「現実界」から「象徴界」に向けてのメッセージである大文字の他者→主体というベクトル及び「想像界」で繰り広がれる自己←他己の関係力動の様相の展開図としての可視化といえる。

 この様相は、「臨済禄」に見出すことの出来る「自己・他己→真人」の基本的な悟りへのベクトル化による語りで、ラカン(≒羅漢)理論に読み取れる、<人間を、自他共に精神的苦悩に貶め悩み苦しませる「想像界」からの脱却体験(=精神分析体験)>と近似的な可能性があり得る。

 さらに、フッサールの実在的人間の主―客の間主観性の根本的意識体験の原本が、ラカンの提示した「フロイトの無意識の科学」の次元を原本にした「構造論に包括されうる間主観性」として論述することは必然的であり、ワロンは、フッサールの間主観性を原本とした鏡像段階を発見していたことは、先に述べたとおりである。

 

4.基本的な劣等意識と潜在的罪悪感の構造的関連性

 

 ここに表記される劣等意識とは、基本的に、人間は千差万別に各々が個という唯一無二の存在であることが前提であることが抑圧されてしまう運命に遭遇したことによって引き起こされたことによって生じてしまった精神次元の力動である。と同時に、個という個体が<自らを自らとして受け入れ、引き受けられない>という精神力動であるという仮説であり,命題でもある。

 この二つの命題の最初の命題は、我が国である日本に、如実に見出される集団精神の次元に現象として現れてくるボワゾー博士の森田療法に関して記述された「服従の精神力動」の関係力動に起因しているものである。ラカン理論の次元で考察を試みると、「抑圧」という次元を超えた「否認の病理」に値するものである。ボワゾー理論に内包されているある種のパラドックスを前提に論を進めると、服従には、「服従を強いる者と服従を強いられる者との関係」の間主観的次元の人間関係の精神力動が核になっていることが分かる。

 我が国では、例えば、「上下関係」・「優劣関係」・「神話的寓話関係」等が、前提として成立している心理学的次元の科学的論理性を有しえない心理学的現象しかないということになる。つまり、ラカンの提示した「想像界の次元でしか物事が成り立っていない」という事態に生じている心理学的次元の現象である。この「否認の病理」は、必ず、「フロイト的去勢」を招来させる「倒錯」の様相を、社会の舞台に曝け出してしまうのである。所謂、<自由(=去勢体験によって確立される)と勝手(=法外者:想像界を掟破りとして生き、掟を招来させる)>を履き違え、「暴露され、恥をさらす」という行為が、全てに先行していた行動であり、行為であったのである。

 ここで一つの例を挙げれば、例えば、「忠臣蔵」で、我々が理解できる「赤穂浪士(=四十七士)」の物語は、「恥の心理学の様相」を見事に描き出している。吉良上野介の浅野内匠頭に対する在り方は、「浅野を恥の対象とする倒錯した嘘による陰謀」の代表であって、この日本の社会には、<「情報の不共有」が、多々、存在している状況>を利用しながら、パワー・ハラスメントが横行している慣わしを観ると最も分かりやすい。「国家と国民の関係」を精査してみると、国民自身の国家との関係に於ける存在意識の問題が有るのは当然であるが、「国民の国家に於ける身分がきちんと了解できる法律条文(=一般市民が読んでも了解することが困難な表記法と解釈法が今日まで続いている。:身分法)」が、極端にいうと地方自治体のような窓口で中途半端で時間を要する仕組みとして成り立ち、未だに「国民の自律した国民意識」が芽生えそうにない。更に、「知らない者が恥をかかされる」という立場になり易いし、「知らないことで馬鹿にされ易い社会文化特性」が幼児的な次元で横行し、こども達の中には「知らないことが恥だ」と思ってしまう一群も存在している。

 然しながら、この仕組みは、究極的には想像をはるかに超えた恐ろしい強制された自罰(=大人の次元に在る死罪を招く行為)であり、忠臣蔵を例に採れば、「主人を失い、お家断絶になった武士達(=逆説的大人の次元の存在)」は、<個々に自立を迫られた生き方>を選択するしかない状況で、それぞれに生活をしながら、「吉良上野介の首を執る」という決意を持っていた。

「罪悪感を否認しながら、恥をかかせた吉良は、ある意味、何もなかったように振舞いながら恥をかいていることを感じながら(=自分の存在価値を映し出せさせることができる他者を失い、孤独になる恐怖を感じ、大きな顔をして、偉そうに、大きなことを言う)、赤穂浪士の復讐(=死の恐怖)」に怯えている姿である。全く、恥の象徴であり、恥ずかしいとしか言いようのない生き様である。ここまでは、ボワゾー博士の「服従の病理学」による自己制約による論説である。

 ここからは、かなりさらに制約された仮説になることを覚悟で、ラカン理論の次元(=ボワゾー博士の精神分析の臨床理論にも普遍的な共通項がある)での「否認の病理学」から恥に触れてみたい。このテーマは、極めて難解な命題の解を求める作業になる、と同時に、「母親が父親と同様にペニスを所有していない」という知覚による「男根の優位性原理の為の誤認」というメカニズムを生き続ける「倒錯者」が、<必ず、与えられた制約のある現実を変更・歪曲が出来ないという去勢原則(=法により罰せられる)から決して逃れられない>という現実に直面するという事になる。

これが、臨床精神分析学理論の共通認識である。そして、この事を理解することによって、我が国で起きている<様々な事件及びフェティシズム、更には、怖いもの知らずの掟の召喚行為等>の原理原則が理解できるはずである。所謂、<恥を、生身で、生きる、権力者達の勝手な姿>で、<裸の王様の姿>という<最大の恥の生き様>といえる。

<何故?“裸の王様”が、“恥を晒すような生き様をしている(=王様は、何も着ていない!)”と、こどもが発言したのか?>という<“問い”への“答え”は、“無欲の欲の次元に在る去勢不安のない現実原則を生きる大文字の他者の発言”となるもので、“ある日本人達には、極めて難解な問い”になるに違いない>と思われる。我が国の殆どの日本人は、<失うことへの恐怖(=去勢不安)を抱え、“真実をコトバで言う”ことを、大人の次元で生きることができていない>と云える。ここに、ボワゾー博士の「服従の病理学」が再登場することになる。  

事実、日本の精神科実践医療の実態を例に考えると、コトバできちんと先進諸国のみならず世界に適切な言語で伝達をしてこなかった歴史は、国内外で山ほどあるはずである。このような論説の立場は、<裸の王様の物語りに登場している“何の意味もなさない空虚な語りで騙さている、現実を見定めることの出来ない王様とは違い、目の前の現実を見据えて、語りえる範囲で、真実を語る”>という次元から逸脱しているからである。この次元には、<恥を知れ!この現実を、恥を抱えたまま続けることは、不可能だ!>というメッセージがあるとともに、<健全な父からの“もう充分ですね!”“お止めなさい!”>という<“禁止”のメッセージを受け取ってしまう>という論理的な帰結になる。ご存じの通り、<“恥”を“知れ!”>は、<“去勢”の“招来”>を意味している、<“倒錯者”への“禁止命令”>と同義ということになる。

 ここで、再度、「否認の病理学」に目を向けると、この病理の理解に必須の「自我の分裂」という特殊なメカニズムがあり、フロイトが、ブロイラーの提示したSchizophreniaの症状病理特性と同様に、精神病への防衛的メカニズムがある。そして、フロイトの実践臨床の体験から、フロイトは、このメカニズムに関しては、殆どが、精神病症状を抱えて発症していないことで、神経症にも類似のメカニズムが生じていることを確信したのである。然しながら、ラカンのフロイト理論の原本的論理化の作業の過程では、<“父の名”の“排除”>という理論的連続性を保障している数学的次元に、フロイトが発見していた<精神病の症状の出現>に見られる<排除のメカニズム>があり、言葉をしゃべるフロイト的無意識の主体を支える基盤である<父の名>が排除されているとしたのである。

 この文章で述べている、ラカン理論の次元に在る「日本の否認の病理学」では、フロイトが研究した「トーテムとタブー」に於ける<原父の殺害>ではない、<否認の構造に論理的に底通している“排除”>があり、結論から抽出できる仮説は、<見せかけの他人の衣装を纏って、立つ瀬を生きる精神病構造>に見出せる<“恥”という“去勢”への“恐怖”>であるが故に、<過度の強迫性を生きる>ということになっている。

 そして、この様な状況では、<“去勢”が“介在する余地”が、“全く無い”>という次元になる為に、<“寓話的神話”に“拠り所”を“求める”>かの如く、<唯我独尊>に陥り、ペリエ博士が論じた「精神病は、“想像界が構造的に欠損している様相”を生きている」という構造の逆説的構造になり、<ラカン派理論に在る想像界を“あたかも、象徴界を生きる”>という、<無意識次元の“裸の王様”を生きる>ということになる。例えば、パリで、とある日本の企業の偉い立場にあった人物が、部下から「帰りの飛行機に遅れないように、もう出発しましょう!」と促された時に、「飛行機を待たせろ!」と表現するような<言語道断な世間知らずの恥知らず>の一例である。このように、劣等意識が逆説的な万能感に変容し、去勢を召喚させるような力動が生み出され、潜在化していた罪悪感が精神世界を支配するようになってしまう。

 「恥の精神病理」に関する普遍的な構造は、<コトバを喋るフロイト的無意識の主体>を前提にして、これからの論考に記していくが、フロイトとラカンに代表される精神分析の次元には、<恥>という漢字表記が、ラカンの鏡像段階で見出される<大文字の他者の“眼差し”と“声”>と関連している<声を聴く“耳”>と<外国語で了解できる“分かる=現象学次元に在る実存的精神”と同義の“眼差し=心”>という<シニフィアンの組み合わせ:恥>による<フロイト的Witz>に大きく関連していることが理解できる。

 

2. 言葉を喋るフロイト的無意識の主体の次元の構造を考える。

 

 ラカンの終生に渡っての理論化されてきた論理構造の根幹には、<人間存在が無意識の存在者である>という<フロイトの夢の科学>に見られる<願望充足>の起源にある<欲望の対象>と表現された、前述した<対象a>がある。このObjet aは、我々の日常生活では目にすることができないが、対象が置き換えられ知覚の次元では、フロイトの提示した無意識の様相として裏付ける要素になり<主体の構造>を保障していることになる。

 

3. フロイトの第二トピックスの無意識の構造力学について。

 

 フロイトの無意識の科学への執念としての理論化の過程で見出された「無意識の様相」に記述された最も分かり易いと思われている要素を有している、第二トピックスで素描されている「エス」・「自我(=エゴ)」・「超自我(=スーパーエゴ)」であるが、実は、この<三要素の機能>が提示している次元に在るものこそが、<逆説的に見出される無意識の構造>となっていることを発見することになる。

 

4. 主体にとって永遠に不可避なる無意識の欲望の構造とは?(=Che vuoi?)。

 

Lacan mentionne pour la première fois le « Che vuoi » - en français : Que me veux l’Autre ? – le 6 février 1957. Il trouve cette question dans « Le diable amoureux », une nouvelle de Jacques Cazotte (1772), qui résume la tension du désir et autour de laquelle s’organise le sujet inconscient.

 ラカンのシニフィアンの科学の様相の一つに「欲望のグラフ」と日本語訳されたものがある。

 

5. 母子関係の無意識の次元にある基本構造への回帰。

 

 こどもの誕生後の母子関係の無意識の次元のあるものは、<欠如主体としての母の欲望・Φ・こども(=回避不能な欲望の換喩的実存者>として図式の次元で論理的に表記できる。

 

6. “恥”の解消の構造的様相。

 

 <エディプスコンプレックスの解消>と<象徴界>

 

7. フロイトの超自我とモラルの課題と文化論。

 

 フロイトの「文化論」・「宗教論」とラカンの「倫理」に登場する<アンチゴネ>

 

8. おわりに

 

 「純粋な恥」とは、自分自身が自己を対象化した瞬間に、<理想と現実>というテーマに向き合うことになり、<他者の眼差しに曝け出され、理想に疎外された姿や自分の全ての受容>の課題を体験することになる。この課題に隠れた精神力動の構造は、ラカン理論を参照すれば、<他者の欲望と自己が対象化された構造であり、同時に、自己を対象化している自己との向き合い>と表現できる。そして、<理想からの疎外>が、<自らが自らを疎外する>という<自己回帰型の疎外>の体験になり、<自死以外には、根源的に永遠に不可能な‟完璧な自己充足‟がない>という発見になってしまう。つまり、ヘーゲルに起源のあるラカンが提示した、<“欲望”とは“他者の欲望”>でしかなく、<自らが、自らの欲望の対象にはなり得ない>ということになっているにも関わらず、鏡像段階の二段階の次元に潜んでいる<想像界の死の欲動の囁き>を聴いてしまうという理解になる。更に、その構造的な起源が、<何処にあるのか?>は、<起源的な母子関係>に潜んでいる<大文字の他者とΦ(=ファリュス)とこどもの関係構造>にヒントが発見できる。

 所謂、通常の社会的次元にある日常生活で、表現されている「社会的間主観性の次元で体験される“恥”」は、基本的には、<フロイトの性愛発達論の“肛門期”>に由来するものであり、<人間の“自己管理の能力”や“道徳観”>として<自律した一般社会生活に必要な“相互承認・相互尊重等の相互共存”として成り立っている>のである。ここで、我々は、日本語の“躾”という漢字表記で了解できるように、<“身”辺を、“美”しく!整わせる!>という<親の在り方とこどもの成長発達>の起源的な社会での存在様式が決定されてされていることに目を向けることができる。

つまり、<こどもが、ある程度、普通に成長・発達を遂げている場合、“他人と共存している社会の舞台”で、“ものごとをわきまえないまま、勝手なことをやっている場合”には、“親が恥をかく”>ことになってしまう。所謂、<親が、こどもをきちんとした躾をしていない>という状況との認識が可能で。日本の場合、諸外国に比べると、かなり厳しいように思われる。何故かと云うと、<こどもには、“個々に、何某かの、考えや想い”があって、“ある種の行為や行動”を示す場合がある>という理解が乏しいことに由来している。日本は、場合によっては、<全体主義的な“画一化を求めている傾向”が、強すぎる>と云えるかも知れない?このように考えると、<社会が、こどもの名誉・価値・尊厳を守って行く、良質な寛容さと厳しさを備え持つ力>が必要になる。この在り方は、<民主的に個人の自由を勝ち取ることの出来なかった日本のアキレス腱>になっているかも知れない。つまり、例を挙げると、代表的には、<日本のクレーマーの登場に、人権を尊重した論理的に対処する効果的な方法>が、見出されにくい事態を生み出してしまう事態も否定できないぐらいである。

ここからは、「社会的に成長しているはずの“大人の恥”」について考えてみることにする。<“恥”の構造とは、一体、何なのか?>は、人間が社会的に他者との間主観的な次元に出現する“精神的な産物”で、“無意識の次元”にあるものである。<恥の起源が、フロイトの提示した“肛門期”に由来している>ことは、既に、述べたが、一旦、<コトバを喋るフロイト的無意識の主体>として、<自覚を伴った自己認識者>の全てが、<フロイト・ラカン理論>を習熟してしているとは限らない。むしろ正反対と云わざるを得ない。<何故ならば、その方が、都合が良い!>と考えて、錯覚している生き方に都合が良いからとしか云いようがない。

然しながら、<自覚を持った自己認識者>には、<この構造の部分的な状況に発生する内なる声>が必ず聴こえる構造を生きざるをえない。所謂、<良心という社会的次元に在る“嘘を付かない声”>が、通常は、<世間(=大文字の他者)から健全に生きている主体>に送り届けられる<自覚を持った自己認識者への道徳を伴っている否定的で、禁止を邪気するメッセージ>を受け取る。そして、我々は、この“内なる声”として聴かれる現象の次元に潜んでいる、<真の良心と道徳律>を見出すことができる。この“聴こえる声”に込められた“真のメッセージ”は、<何人も侵すことの出来ない“法”“掟”“法則”>といわれる“人類にとって不可侵の法則”と為っているはずである。

ということは、取り敢えず、結論から云うと、病気でない限りでは、<フロイトの定義した発達論の“肛門期への退行”>という理解が妥当性を持つ。この状態は、<幼児的退行の状態>になっている限り、「旅の恥は、かき捨て」に代表されるように、<自分勝手な状態を生きる>ことになる。ここで、<“自由”が、“個々に制約された必要十分条件下で、個々を尊重し、個々人の生き方”を保障している原理>が発見できる。然しながら、<“勝手”は、自覚を持った存在認識者が、自分に都合の良い、生き方を、尊い他者の存在を無視し、平気に生きている姿>が曝け出される仕組みになる。

そして、<他を尊び、重んじる大人としての“自由な生き方”>と<他を無視し、蔑ろにしている、肛門期に退行している勝手なこどもの“生き方”>とは、全く相容れられないものになる。ここで、フロイトの肛門期の特徴について考えると、<自立に必須の倫理の起源ともいえる道徳など規範を守る自律の確立>、<人に服従を強いたり、被服従を好んだり、強度の怒りや自分に都合の良い勝手な仕組みを暴力的に作り上げたり、浪費や過度の抑制等>があることが理解できる。

結局、フロイト・ラカンの理論の次元で明らかになることは、<“恥”とは、他人に対しての他者である大人になる為に必要な“去勢体験”であり、“幼児的満足の放棄”の体験に繋がる精神性の次元>の発見と云える。つまり、<コトバを喋るフロイト的無意識の主体>とは、<人間とは、現実原則を生きる、幼児的満足の実現に縛られて、反復強迫を生きながら“幼児的満足の対象”を放棄する生産的作業に勤しむ人間の姿>と表現することができ