2024年6月24日 TSUBASAのブログを読んで | 2コ下のブログ

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#つばさの頭の中

 

いつも凝っていて楽しいTSUBASAのブログが更新されるのをひそかに心待ちにしている。毎回必ずという訳ではないが、読んで思うことがあれば感想を書いている。大抵はXのALTにこそっと埋めておくのだが、今回は字数が多くなってしまったことと、ちょっと辛辣なことも書いているので、ブログに上げることにした。それもその筈、年内とされている私の推しメンと同時期の卒業がヒタヒタと近付いてくる中、自らの卒業、TSUBASAという人格の死、7代目選抜などについて触れているのだから、どうしたってこちらは過激にならざるを得ないだろう。

 

アイドルとは愛される事が仕事である。だからこそ、愛とそれを裏付けるためのいろいろなものを貪欲にかき集めておいて、自分のタイミングで「辞めます、サイナラ」というのは道義的にも、倫理的にも許されないことだと私は本音では思っている。

 

かと言って「アイドルの前に 一人の女の子なのよ♪」(メロンソーダ)は事実であり、永久にアイドルであり続けることは奇跡的な確率でしかないので、いつかは卒業するというのは不可避なことであり、厳しいことを言えば始めたときのお約束だとも言える。誰よりも好きな推しが「私自身が幸せになるためにどうすればいいのか真剣に考えた結果、卒業を決意したの」と本人が言い張れば、自分の感情はさておき、「そっか、わかったよ」と言うしかないのは、優しさというより弱さである。でもやっぱり、ヲタクにはアイドルを今の位置に縛り付けておく権限もありはしないのだから、本人は時間をかけて根回しもして、練りに練ったのだろうがヲタクにとっては寝耳に水の「決定事項」を受け入れるしかないのだ。聞いた時には完全に決定事項で、覆ることはありえない。だから本人は成仏できるかもしれないが、ヲタクは取り残されて時間の経過が推しの残像を朽ち果てさせ、次の愛に埋まって姿が見えなくなるまでずっと思いを抱いたまま地縛霊になるしかないのだ。つくづくも因果な世界だし、キラキラした推しに出会って萌えあがるまでの刹那にこの結末が一瞬でも過(よぎ)ったなら、決してこの地に足を踏み入れることはないだろうにと思うと不憫を通り越して滑稽だし、きっと前世で悪事の限りを尽くしたからバチが当たっているのだろうと自らの業の深さに思いを馳せてしまう。

 

全員が完遂させることなく、大変な時間と労力と財力をかけて積み上げた石ころが目の前で無残に突き崩され、ため息をひとつついてまた石ころを積み上げにかかるという無限ループはどこかで見たことがあると思ったら、地獄の入口よりはるかに手前にあるという賽の河原だった。伝説では親に先立つ不孝をしてしまった子供がまだ生きている親のために功徳を積む修行をしているわけだが、推しに先立たれてしまったヲタクはなんのために石を積み上げているのだろう。本来ならヲタクを置いて先に逝ってしまった推しこそが石を積まなきゃならないんじゃないか。もちろん、ヲタクが石を積むのは決して推しのためではなく、ヲタクという不埒な身分に堕ちた自らの罪を償うために違いない。「破廉恥で怠惰な豚でいる罪」というヤツと同じことだ。

 

最後だけれど2度目のセンター様がどんな景色を見せてくれるのか、少し離れたところから楽しみに眺めていたいと思う。どう受け止めてどう感じるのかは、早とちりや不見識さも込みでヲタクの特権なので、好きなようにさせていただく。路傍の石ってやつですな。石なりに勝手に期待しているところはあるんだよ。

 

あとは卒業のスタイルというのは星(スター)の数だけあるからね、TSUBASAの姿を横目で見つつ、自分の推しはきっとそれ以上にキラキラしてカッコよく卒業するのだと信じてついてゆく。ひょっとしたら我々を賽の河原に置き去りにすることなく、全員成仏させてくれるんじゃないか、最後に笑うのは(つばっ担ではなく)俺たちじゃないのか、なんて世の道理に反する期待を抱きながら。

 

せっかくなので長く書いてくれたタイトルにも返歌を。ちょうどこの「架空の人物」と同じような話を先日推しとした。どうやら30年も生きていない若い皆さんとは感覚が違うようなのだが、その倍も生きると、人生の過程で様々な役割やら立場やらというものが与えられ、勝手にされた期待に応えるため、次々と人格を増やしてゆくことになる。あたかも解離性同一症のように。だからTSUBASAが世を忍ぶ仮の姿であることに何ら抵抗を感じない。そもそもヲタクの大半は自分で勝手につけた名前を名乗り、その名前でしか相手を呼べないのが一般的である。だから、この時点で少なくとも本名の人格とは別人格を纏っていることになる。ある人格を計画的に期限を切って終わらせたことはほとんどないが、そもそもそうする必要性を感じない。必要な時に必要な人格を呼び出すのであって、用がなければ呼び出されないまま朽ちてゆくものだから。私は現場によらずヲタクの人格は一つしか持っていないが、それぞれ別の人格を使い分けている人もいる。

 

そう考えるとTSUBASAと無理に死別する必要なんてないのではなかろうか。TSUBASAとしてステージに上がることはなくなるとはいえ、それはお座敷がかからなくなるだけのことであって、別に終わってしまう必要はない。このあたりが、まだ人生の第一コーナーに差し掛かったばかりのお嬢さんと、第三コーナーを回ったロートルとの感覚の違いなのである。死なないのだから成仏もしない、その必要もない。願わくば、もっと人生の巧者になって、何年も経ってから思いついて、虫干しがてらTSUBASAをひょっこり出してみてくれてもいい。そうすればTSUBASA推しのヲタクも自分たちの中のつばっ担人格を殺さなくて済む。