マクロ戦略 | フレイルも認知症も減らない日本

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Nobody is in possession of the ultimate truth.

ウイルスと戦争の世紀で人生を終えることになるとは・・・まさに第三次世界大戦前夜の状況ですからね しかも本日は日本の金融市場はトリプル安

医療におけるマクロ戦略



『グローバル・マクロ戦略』


ホテル宿泊時、物珍しさもあり、
日頃、目にしない新聞を頼みますが、
その都度、マスメディアの選択の重要性を痛感させられます。

日経では、マクロ経済なる言葉を良く目にしますが、医療経済学ではなく、臨床医学における「マクロ戦略」となるとまず聞いた事は無いと思います。

「遺伝子」から「活性酸素」へと対象は変わりましたが、昔から頭の中を駆け巡っている戦略です。

金融知識のある方だと直ぐに気がつかれると思いますが、ヘッジファンドの帝王、George SorosがQuantum  fund他で駆使したのをはじめ、ヘッジファンドの戦略の一つにグローバル・マクロなるものがあります。

グローバル・マクロは、世界規模で、金融商品の価格の「歪み」を見つけ、投資機会を得る戦略です。

Sorosの戦績上、歴史的に有名なのが
91~92年の英ポンド危機。

実際よりも「過大評価」されていたポンドに対し、Sorosがイングランド銀行に対抗して売りを浴びせ、欧州為替相場メカニズムから英国政府を脱退させる事態となりました。

かつての基軸通貨であったポンドも過去の幻想から離れ、実力相応の価格帯に収まりました。

ポンド暴落安は英国産業の回復に寄与したとの解釈もあり、資本主義経済は、投機家の所業もその一部となす寛容さを持ち、「硬直」した他の経済システムを凌駕する、その「柔軟性」に感心させられます。



『人間は常に間違っている』


医療におけるマクロ戦略は、文字通り解釈するなら、巨視的な立場から治療戦略を組み立てる事を意味します。

医学においても、領域によっては「歪み」が生じているのは間違いありません。いや、「歪み」だらけと言って良いかもしれません。

Sorosは、その「歪み」を投資機会と捉え、利益を上げましたが、医療における「歪み」は患者の不利益に他なりません。

Sorosが言うには、金融市場において、市場参加者のthinkingとreality間に乖離が形成され、これが「歪み」となります。

まさに、市場参加者の理想と現実の市場価格間の双方向な関係が成立し、幾つかの過程を経て「歪み」は修正されます。

ところが、自然科学的分野である医療においては、医師、大学・学会や製薬会社から患者・家族への、一方向な   関係から、実に奇妙な事象が起こります。

「権威主義」と「ヒエラルキー」により極めて強固な硬直した情報伝達システムが形成されるのです。

では、医師、大学・学会や製薬会社は、全てを知り得て、「絶対的な真理」なるものを得ているのでしょうか?

因みにSorosは 
Nobody is in possession of the ultimate truth.
と書いています。

哲学では通常論議される
「可謬性 (かびゅうせい)fallibility」なる言葉があります。

日本の医師の哲学的思想や栄養学の知識は、世界標準から見て如何なるものかは触れませんが、通常、「可謬性」など医師の理解するところではありません。

私はSorosの著書から、「可謬性」なる概念を学びました。

Sorosを投機家と聞いて眉を顰めるのもどうかと思いますが、日本人が訳した本など読まずに、英語で書かれた、哲学者でもあるSorosの原著を読んでから批判すべきでしょう。

15年程前に、香港で購入したSorosの本が、今も自分の「思考の原点」として欠かせません。

結局のところ、色々と失望してはこの本に戻るの繰り返しです。

Sorosは「可謬性」に関しても大変上手に表現していますが、人は物事を不完全にしか理解できない、「知識に関する主義・主張は誤りを回避できない」となります。

人間は間違うのです。

具体例として不適切かもしれませんが、日本の最高レベルの研究機関や世界最高峰の科学雑誌で繰り広げられている「コピペ事件」で充分でしょう。

切り貼りされた写真以上になんたら細胞は存在するのか、早く見たいものです。

あれは最先端の事で混乱は不可避な状況だったと言うなら、例えば、日常の診療で、薬剤「G」を用量「S」から開始して、用量「H」まで調整するにしても、伝統的思考様式により施行されてきた投与法と蓄積された知識の介入により施行される投与法は同等であるか否かに議論の余地があります。

これが、医療における「可謬性」に他なりません。

あらゆる経験的知識は、修正される可能性があり得ます。

我々が知識と考えているものに、誤りが判明する可能性があると認めざるを得ないのです。

よって、普遍的にあらゆる職種に言えるでしょうが、「狭い領域」に限定しても、「可謬性」から逃れる事は不可能でしょう。

だから、周囲と同様な経験的知識に依存して、事なきを得るのが得策となります。

正しいと思っていた事が、実は間違っている。

しかも、大抵、自力で間違いにも気が付けないもの。

まぁ、「可謬性」のカタマリみたいな私が言っても、説得力が無いかもしれませんが。

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