怠全仙人閑話 -6ページ目

怠全仙人閑話

まだ高校生だった頃、同じタイトルで大学受験で有名な出版社の機関誌に投稿していたことがありました。あの時は目の前の現実である「学校」が嫌で、大学に合格することだけを夢見て日々を何とかこなしていました。還暦を過ぎた今、あの頃と基本的には変わらない私がいます。

 2名の引き締まった感じの若い男性隊員が開け放されたドアから急に入ってきた。先に入ってきた長身の方が、ズカズカとベッドサイドに来るなり、

「マスク、マスクはないんですか?」

と騒いだ。秀夫はベッドの上で丸くなっている安田さんに腰をかがめて

「マスクはなかったっけ」

と聞いた。足元の方にある襖を指差すので、中を開けると「クスリ」と赤い字で書かれた箱の上にマスクが2枚転がっていた。秀夫が拾いあげて

「これ?」

と安田さんに示すと先程の救急隊員が

「あ、それじゃだめ、おたくや私がやってるようなしっかりしたものはないの」

と早口で言った。それは、昔、小学生だった頃に給食当番で使ったようなマスクだった。秀夫もコロナが流行りだした頃に政府から支給されたがついに1回も使わなかったものだった。なおも、秀夫が押入れの中を探し出したのを見て、その救急隊員が

「あ〜、もういいです。これあげるから」とどこから出してきたのか新しいマスクを差し出した。

 安田さんがマスクを着けるのを確かめてから、もうひとりの比較的小柄な隊員が安田さんのベッド脇にかがみこんで

「べッドから落ちたんですね、痛いとこない?」

と言っても安田さんの大腿部等を擦った後で秀夫や安田さんの聴取を始めた。しかしその内容はケアマネジャーや秀夫が119番で話したことの繰り返しがほとんどだった。ある程度、秀夫が話したところで背の高い方が

「かかりつけの病院とかないんですか?」

と大きな声で言った。

「ほら、こうやって意識もあってお話もわかるみたいし、それなら、多分、今日は入院は難しいと思いますよ。検査をしてもらうにしてもなかなか今日は病院がねえ。日頃からよく使ってる所があれば早いんだけどね」

と続けた。

 秀夫は救急隊員の態度にやや性急なものを感じてはいたが、コロナがこれだけ蔓延した状態でもあるのでただ大人しく質問に答えるように努めた。

 結局、日頃から特に悪いところのない安田さんだったため、そういう病院がないことがわかると背の高いほうが、安田さんに向かって

「じゃぁねえ、下に救急車が待ってるから、歩いて行けるかな」

とまた大きな声で言った。

 さすがに秀夫も

「行けるわけないでしょ、ベッドから落ちても動けずに私に電話かけてきた人ですよ」

と少し声を荒げた。

 2人は顔を見合わせて部屋を出てゆくとしばらくしてストレッチーを持って現れた。2人は安田さんをストレッチャーに移しながら秀夫に向かって

「あなたは、ご自分の車ですか?」

と尋ねた。秀夫が自分の車だと応えると

「車を救急車の後ろに回してから、また、声をかけてください」

と言ってストレッチャーを押して進んだ。秀夫は安田さんのストレッチャーが部屋を出るのを見届けてから戸締まりをして自分の車に向かった。

 秀夫が赤色灯をくるくる回しながら停車している救急車の後ろに自分の車を停めてから降りて近づくと、後部のハッチが開いて中に乗るように言われた。救急車の片側半分はベッドになっていて、安田さんが目を固く閉ざして眠っていた。秀夫は、その隣の何のクッションもない硬い椅子に座らされた。

 背の高い方の隊員が運転席に座って、無線交信をしていた。

「はい、お世話様です。88歳女性、昨日から発熱、現在、体温39度、spo 2は95、特に既往症はありません。そして---」

その後はしばらく「はい」とか「そうですか」という「合いの手」を入れてから

「無理ですね、わかりました」

で、また、次の通話に移るというのが繰り返された。同じセリフの節回しが居酒屋の兄ちゃんが客のオーダーを反芻するような調子だなと思って、秀夫は不謹慎にもおかしくなってしまった。

 そういったやり取りを更に何回も繰り返した後で運転席の方から

「検査だけならしてくれる所があったけどどうしますか」

という声が聞こえてきた。秀夫は隣で寝ている安田さんの様子を伺い見た。目をかたくつぶって、皺が深く浮き出ている。

「検査だけということは、仮に陽性でも入院できないんですか?」

と秀夫が聞くとフロントガラスの方を向いたままの隊員に代わって、背の低い方が頷いた。秀夫が続いて

「じゃあ、病院からどうやって帰えるんですか?救急車で送ってもらえるんですか?」

と聞くと

「我々はすぐに次があるんで無理ですよ。そのために、あなたにきていただいたんです」

とフロントガラスの方から隊員が言った。「お聞きになってた通り、今日はもう、入院できるところは無理ですね。それでもどうしても入院だとおっしゃるならずっと探しますけど。」

と続けた。

 安田さんはぐったりして動かない。

「わかりました。ここにずっといても仕方ないんでそこに行ってください。安田さんは私が連れて帰ります」

と秀夫は答えた。そして検査してくれる病院の所在を確かめてから自分の車に戻った。

 秀夫はサイレンを鳴らして進む救急車のあとを追って走ったが、赤信号でも構わず進む救急車にすぐに離されてしまった。

 ふと「濃厚接触者」というフレーズが秀夫の頭をよぎった。救急車を3時間半も同じ部屋の中で待っていたし、この先、安田さんが陽性の場合でも、この狭い車の中でふたりきりになってしまうのだ。

「私はね、一人もんじゃないんでね」

と言ったケアマネジャーの言葉が蘇った。   

 「一人もんは、どうでもいいのか」

秀夫は呟いた。

 秀夫は「一人もん」であった。