秀夫が病院に着いて夜間救急窓口に顔を出すと、秀夫を見つけた看護師が駆けてきて、
「そこから中には入らないで!」
と秀夫を制した。そして、
「安田さん、陽性でした」
とだけ秀夫に告げて病院内に戻った。
検査は既に終わっていたのだ。
それから事務職員の若い男性が出てきて秀夫の持ってきた保険証をコピーしたあと、「コロナで自宅療養される方へ」と書かれた3枚綴のA4版のプリントを手渡してから中に入り、さっきの看護師が再び出てきて代わった。
「陽性でした。残念ですが、ここでのご入院は無理です。可愛そうだけど、うちも検査だけという約束で受けたからね」
と少し気の毒そうに言った。
「あのね、連れて帰りますけど、88歳であの状態でマンション、3階ですよ。私、ひとりですよ。陽性なんでしょ」
と秀夫は言った。
看護師は、困ったように顔を少し歪めて
「うーん、そう言われてもね、私もどうしようもないんでね」
と応えた。
「あなたに言っても仕方ないんですけどね」
と秀夫が力なく俯いたときに、救急車が赤色灯を消して秀夫の後ろを走り去って行った。
秀夫は停めていたコインパーキングから自分の車を救急車が停まっていた付近に移動した。看護師が病院の中から連れ出して車椅子の上で丸くなっている安田さんを私の車の後部座席にかなり苦労して移乗した。足がほとんど動いていない。
「ああ、これ、あげるね、気分が悪くなったらここにつば吐いたらいいよ。」
と看護師がビニール袋を2枚、安田さんに手渡した。
秀夫は丸くなってほとんど動かない安田さんに声をかけてから、車を出した。運転しながらも、秀夫はどうやって3階の部屋まで運べばいいのか、そればかりを考えていた。
秀夫はいろいろと悩んだ後で、無駄は承知で運転しながら110番に掛けてみた。秀夫の訴えは聞いてくれたものの、結局は所轄にかけ直してほしいということだったので、車を停めて所轄の電話番号を書き留めてかけ直した。
「陽性なんですね。うちの警官に感染する恐れもありますしね」
と所轄の警官が言った。
「ですから、人手はこの際、いいんですよ、私はもう立派に『濃厚接触者』になってしまってますから、いいんですよ、ひとりでしますよ!せめて、警察署内に車椅子でもおいてないんですか?しっかりアルコール消毒して返しますから」
と秀夫は叫ぶように言った。
「いや、そんなんはおいてませんよ。さっきの病院で貸してくれなかったんですか?」
と言うので、秀夫が
「だめでした」
と応えると
「そのへんの病院、当たってもらえますかねえ」
という返事が返ってきた。
秀夫は馬鹿馬鹿しくなって
「今からいちばんお部屋に近い路上に違法駐車しますから、せめて駐禁はやめてくださいよ」
と言って電話を切った。
マンションの入口付近の車道に車を停めると秀夫は後部座席のドアを開けた。ぐったりと大儀そうな安田さんに
「着きましたよ。大変ですけど、お部屋まで戻りますよ」
と声を掛けた。とにかく車からまずは出てもらわなければならない。
「安田さん、この足をちょっと前に出せますか」
と声をかけても足はいっこうに動かなかった。秀夫は社会福祉士でもある。その養成校で介護実習の経験は10数年前にしたことはあるが、足もなかなか動かない88歳のコロナ患者を深夜、ひとりで車から3階の部屋までお連れするなんてことは習っていない。
秀夫は仕方なく車からかなり強引に連れ出すと、身を低くして肩に抱きかかえるようにしてエレベーターを目指した。半ば引き摺りながらもエレベーターに乗せて3階に着き、お部屋まで担いで行った。一度、安田さんがはっきりした声で
「痛い、痛い!」
と言ったので更に身を低くして進んで行ったのは覚えているが、あとは、どういう体勢だったのか、秀夫は思い出せなかった。
秀夫は部屋に入って安田さんをやっとのことでベッドに寝かし込んでから、病院でも検査をしただけで全く薬を飲んでいなかったことに気がついた。そこで秀夫は冷蔵庫からヨーグルトを容器に入れて持ってくると、あまり気がすすまない安田さんに頼み込んで2、3口、口に運んでもらってから、病院で出された「食後すぐに服用」という注意書きが添えられた薬をペットボトルの水で飲んでもらった。それから秀夫は安田さんがちゃんとベッドの端ではなく中程にいることを確認してから部屋を出た。
部屋を出ると秀夫は腰に疼くような痛みを覚えて、大きく伸びをした。
車から部屋にお連れしたときは、お互いマスクをしていたとはいえ、まるで恋人同士ぐらいの接触状態だった。秀夫は、経済活動との調和をはかって、「緊急事態宣言」等も出さず過去最多の感染者数を出しながら行動制限もしないで、重症者でなければ入院させずに自宅待機でいくという政府の方針に従っただけである。秀夫は、
「これぞ、立派な『官製濃厚接触者』の出来上がりだな」
と思うと自虐的な笑いがこみあげて来た。
見上げると、8月にしては、青味がかった大きな満月が、深夜の夜空にかかっていた。


