怠全仙人閑話 -3ページ目

怠全仙人閑話

まだ高校生だった頃、同じタイトルで大学受験で有名な出版社の機関誌に投稿していたことがありました。あの時は目の前の現実である「学校」が嫌で、大学に合格することだけを夢見て日々を何とかこなしていました。還暦を過ぎた今、あの頃と基本的には変わらない私がいます。

 まだ数人の教員が残っている午後8時頃からだいたいどこの学校でも、最初の巡回をすることになっていた。巡回とは文字通り、学校内をくまなく巡り歩いて異常がないかどうかを点検することを言う。英雄は職員室を巡回するついでに残っていた男性教員に挨拶した。

「そうか、今日から君が入ってくれるのか。いやあ、若い人の方がいいね」

と、男性教員が赤ペンを右手に持ちながら机の上での作業を中断して英雄に言った。

「今日だけ、臨時で来たんですけど」

そう英雄が応えると、

「えっ、そうなの、残念だなあ」

と人懐こい笑みを浮かべながらも、すぐに視線を机の上に戻すと赤ペンで答案用紙らしきものになにかを書き込んだ。

 英雄は早々に職員室を出た。

 巡回をする際には、万が一の侵入者を考えて巡回している場所の電灯はつけない。侵入者に警備員の所在を知らせないためである。だから、ぽつんとある非常口のグリーンのライトだけがぼんやりと照らし出す暗闇の空間を、手に持った懐中電灯の灯りひとつを頼りに歩くしかないのである。

 巡回場所は3階建ての鉄筋校舎一棟とその隣の独立した平屋の技術家庭科室、あとは校庭を突っ切った所にある体育館と屋外プールといったところだった。巡回の際には鉄製の刻印と呼ばれる文字盤のついた目覚まし時計様のものを首からぶら下げて行く。それには大きな鍵穴がついていて、巡回のポイントとなるような場所には児童や生徒にわからないように工夫してそれに合う鍵が隠されていた。警備員は決められた時間に宿直室を出発して上の階から順番に降りていって、該当の場所に来たら鍵を探し出して刻印の鍵穴に差し込んで鍵を回す。そうすることによって、刻印に機械上証拠が残って、警備員が何時にどこのポイントを巡回したかが明らかになるという仕組みだった。

 今回は初めての学校だったから、英雄は司令から鍵のありかを記したプリントを渡されていたが、いつも初めて行く時には、それでも鍵のありかがなかなかわからなくて苦労するものだった。

 3階は、3年生の教室だった。すべての教室にいちいち入ることはしないが、各教室の廊下側のガラスはすりガラスになっていて中を見ることはできないが、教室の一番後ろのガラスの1枚だけは決まって透明のガラスになっていた。英雄はその透明のガラスに懐中電灯を照らしてひとつひとつ教室を覗いていった。時には外に向かった窓できちんと鍵が閉められていないものもあったりして手は抜けなかった。

 また時には生徒の机の上に花瓶に生けた花が置かれていたり横になった花束がそのままになっている事もあった。そんなとき英雄はすぐに懐中電灯の灯りを反らしてその教室の前から足早に立ち去ったものだった。

 理科室も決まって刻印の場所だった。各学校に必ずある人体模型は何度見てもあまり気持ちのいいものではなかったが、これとて慣れてしまえば騒ぐ程のものではなくなる。しかし理科室独特の鼻にツンとくる酢酸系の臭いには英雄は決して慣れなかった。臭いの方がより直接、何か、伝わるものがあるような気がした。

 臭いといえば、給食調理室を巡回するときに決まって漂ってくる牛乳に何かを混ぜ合わしたような臭いにも英雄は慣れなかった。体調の悪い時には吐き気さえもよおしてしまう。更にその臭いの中でカサコソ、カサコソという何かが蠢く音にしばしば遭遇しては、鳥肌が立った。

 英雄がこの仕事に就いてもう3年が経過していた。30歳を前にしてサラリーマンをやめてからのフリーター生活もすっかり長くなっていた。同級生の多くは、早くも課長になった者もいて、会社で責任ある仕事を任されたりしている。家庭でも子ども2人ぐらいの、若いお父さんになったりしている。

 それにひきかえ、自分は闇に閉ざされた空間で目を凝らしたり聞き耳を立てたり、鳥肌もたてたりしている。

 英雄は心底、情けなかった。

 鉄筋校舎の巡回を3階から1階まですべてを終えて英雄は技術家庭科室に入った。ここは作業室等も備え付けてあって普通の教室よりも広いため室内に入る必要があった。刻印のための鍵も置いてある。英雄は、刻印を済ませると機械油の混じった埃っぽい臭いの充満する部屋を素早くあとにした。

 技術家庭科室を出てその前にある通路を歩き始めた時、懐中電灯のぼやけたオレンジ色の光が古びた黒板を捉えた。技術家庭科室に入った時には気付かなかったが、それは校舎の入口付近にでも掛けてあったような大きな黒板だった。光で照らし出すと20年以上も前の日付の入った学校行事が記したままだった。懐中電灯で照らし出される文字は、白墨の跡が薄くなりながらも「中間考査」とか「校内球技大会」とかいう文字が読み取れた。英雄は興味の向くままにライトをさらに動かしていたが、それが黒板のはずれに来たときに、はっきりと白墨の跡も鮮明な白い文字に出くわした。英雄は、少し驚きながらも、しっかりと見つめてしまった。明らかにまだ書き込まれて日が浅いと思われるその白い文字は怒ったように角張っていた。

そこには

「俺は、どこまで独りなんだ!」

と書かれてあった。