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繋プロジェクト-TSUNAGI PROJECT-

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仙台から石巻に向かう途中の事でした。まだ信号や道路も壊れたままの道を進み東松島市に入ると景色は一変し家族から笑顔が消え見た事の無い状況にさっきまでうるさかった子供達も静まり返り言葉を失っていました。
嫁さんも想像を遥かに超え余りにも変わってしまった光景に涙を流しながら呆然とする姿を横目に車を走らせる事数時間何とか嫁さんの実家近くに到着。まだ完全に水は引いておらず瓦礫の中を注意しながら実家に行くと家の中に人の気配が…。ドアを開けると両親と弟の姿が…なんとみんな高台に避難する事ができ無事でした。嫁さんの顔にも少しの間笑顔が戻り安心した記憶があります。
しかしお互いの家族は無事でしたが親戚や友人など安否確認が取れない状態が変わるわけでもなく余震も続いていて予断を許さない状況が続いた事は言うまでもありません。
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仙台に帰って来てからもまずは水と食料やガソリンの調達に時間を費やしました。幼い子供達が居たため嫁さんと交代しながら近所のスーパーや商店に行きましたが大勢の人々が並んでおり数時間待ち。ほとんど買えず戻る事を何度も繰り返し2日分の食料を調達、当時二歳の末っ子が嘔吐下痢症を発症しており衰弱状態、おまけに水やお尻ふきなどが無いためお尻はかぶれ大変でした。三月にも関わらず当時は寒さが以上に厳しく雪も降りその雪を風呂場の浴槽に貯め溶かしトイレ用の水に活用しましたが今思えばやめた方が良かったのではと悔やまれる行動でした。その雪が降ったのは原発爆発後の事だったので。その当時正確な情報が無く様々な話が飛び交っていましたが知識不足だった私には出来る事が余り無く昔何処かで聞いた話を頼りに乾燥こんぶや昆布茶を子供達に与える事ぐらいしか出来ませんでした。そんな中石巻に戻るためガソリンを調達しに行くとまたもや長蛇の列…丸2日以上かかりなんと往復分のガソリンを確保、ありったけの物資を車に積み込み嫁さんの家族を探しに石巻へと向かいました。
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地盤沈下で。
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心配していたガソリンも底をつき掛け日が傾きかけた頃ようやく自宅近くへ着き子供達の通う保育所の石垣が崩れていない事を確認し自宅へ。到着してすぐにドアを開けると誰もいません、外に出て探しに行く途中向かえの家の方に会った瞬間「生きてたー!」と叫びながら涙を流しました。私が石巻の海岸近くで仕事をしていた事と安否確認が出来ない状況から心配してくれたようで、人息つく間もなく「みんな無事だよ!一緒に居たから!早く会いに行きなさい!」と言われ一緒にその場所へ向かうと子供らしき声が聞こえ路地を曲がった瞬間子供達の姿が…。
子供達が気づき「パパー!帰ってきた!」「お帰りー」「ただいま」涙の再開でした。そして嫁さんのもとへ向かうと意外な反応で答えました、「早かったね」さすが四人の母親は強い、必ず生きて戻って来ると思っていたが早くても一週間は帰れないと予想してたらしく予想外の早さにビックリが先行したもようです。(さすがにお互い涙は出ましたが…)無事離れ離れになっていた家族とも再開する事ができたのも束の間、他の地域の状態が分からず状況確認をすると震災による被害の甚大さに絶望し唖然としました。

立ち止まっている暇もなく石巻を出る際に皆と約束していた事をしなければなりません、仙台にな来る途中にいた消防や警察や自衛隊などに救助の要請はしたものの混乱が続いており明確な答えは返ってこない状況でした。私の居た地域も道路や橋などが寸断されており陸の孤島とかしていて怪我人、病人、お年寄り、幼い子供達など救助を待つ方が大勢おり、また、水や食料や医療品などもほとんど無く一刻を争う状況を伝えなければと考えていました。その時親戚が安否確認しにわざわざ避難先を探し訪ねに来てくれたのです。お互いの安否を確認した後その親戚に頼み車に乗せてもらい石巻の状況を知らせ救助の呼び掛けをしに近くの放送局へ向かいました。放送局の受付にいた方に訳を話すと担当者を呼んで頂きまずは話を聞いてもらえる事に。当時は石巻の情報が放送局にもほとんど無くこれまでの状況を伝えると直ぐに放送してくれる事になりました。皆様の迅速な判断に感謝しながらその夜は避難先で休む事となりました。
※当時ライフラインが寸断されており我が家は暖房機が使えず布団にくるまっていた時向かいの方が訪ねて来てくれて助けて頂き近所の親切な方の自宅に泊まらせてもらいました。もちろん震災まではお付き合いが全く無い方です。本当に救われました。有難うございます。
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当時の地元の写真です。
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