日本を代表する自動車会社と似たような名前を持つ詐欺会社「豊田商事」は永野一男という男によって創業された。数多くの系列会社を持つ大企業であったが、そのどれもが詐欺をするためだけに存在していたという悪徳企業であった。永野のモットーは「葬式代までふんだくれ」であり、老後の資金を蓄えている老人を主なターゲットに純金の現物まがい商法を情に訴えかけるなどもして持ちかけ、これによって財産を根こそぎ奪われて自殺まで追い込まれた被害者も少なくなかった。
豊田商事による被害者数は数万人、被害総額は2000億円の巨大詐欺事件を起こした会社として社会的に注目されていた。1985年6月18日、大阪市北区にあった豊田商事の会長であった永野一男の自宅マンションの玄関前に「永野が今日、逮捕される」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まっていた。16時30分すぎ、詐欺被害者の元上司に当たり、右翼を名乗る飯田篤郎(56)と、飯田の手下で建築作業員の矢野正計(30)が永野の部屋の前に姿を現した。
飯田と矢野は張り込んでいたガードマンに「永野に会わせろ」と要求。連絡を取るためにガードマンが階下に下りたあと、ふたりは元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれ」と頼まれたと報道陣に語った後、通路に面した玄関横の窓のアルミサッシを蹴破り、窓ガラスを割って侵入した。この頃になって報道陣も男達がなにをしようとしているのか概ね察して慌て始め、「ちょちょちょっと待って待って!」「おい府警呼ばんか!」「お前らやめとけ!」と叫び出した。
騒然とする報道陣を尻目に、ふたりは永野の部屋に押し入った。この時点でテレビのカメラは内部を捉えていなかったものの、中からは飯田と矢野のふたりの「お前かコラァ!」「お前は死刑や!」などの怒号や、「うわ!助けてくれぇ!」や「ギャー!」といった永野の悲鳴が響き渡り、揉合いになったのか家中のものが飛び散るような凄まじい物音が聞こえた後、飯田の「死ね!」という叫び声が聞こえ、急所を刺されたらしき永野が「ギャッ」と断末魔の叫びを上げると遂に沈黙した。
修羅場を思わせるやり取りに報道陣は「大丈夫かー?」と永野の身を案じ、彼らの中の誰かが「4時36分か7分か」と言った数分後、返り血を浴びたのか血まみれの飯田と矢野が中から現れ、報道陣に向けて、矢野は「コイツや!コイツを撮ったれ!」と銃剣を振りかざしながら怒鳴りつけ、飯田は「おい、警察呼べや! 早う! 俺が犯や!」と自ら名乗りを上げた。凄まじい様相の飯田と矢野を見て報道陣はひたりが永野を刺したと確信し、「やっぱり殺しに行ってたんや!」と叫んだ。
飯田と矢野は報道陣の質問に答えた後、エレベーターに乗り、彼らにタバコを要求した。そして、マンションから出たところで駆けつけた大阪府警天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。警察官がドア開け、報道陣も中に入ると、辺り一面に物が散乱している部屋に血の海が広がり、永野が倒れていた。永野はこの時点でまだ息があり、直ちに病院へ運ばれたが、全身13か所を銃剣で刺されており、腹部の傷が致命傷となって、事件発生から45分後の17時15分、出血多量で死亡した。
永野は部屋の中にいたため、殺害される様子そのものは映らなかったが、犯人らが室内に侵入の様子及び、窓際に置き去りにされた血まみれの永野がストレッチャーで運ばれる様子の映像がリアルタイムで茶の間にNHKや民放テレビ各局で中継された。このとき、日本放送協会は「子供には見せないでください」と慌ててアナウンサーが呼びかけた。その後、発売された写真雑誌「FOCUS」は犯人の飯田が血まみれで断末魔の形相の永野を抱え、矢野が銃剣を持つ写真をが誌面に掲載した。
このときの永野の所持金はわずか711円だった。被害者から巨額のカネを巻き上げた会長にしては余りに寂しい金額である。豊田商事は事業規模が大きくなりすぎ、より多くのカネを詐取するために際限なく組織を拡大する必要があり、詐欺で得たカネの多くを人件費や運営費などに当てるようになっていた。当初は派手な生活を送っていた永野も、いつしか私服を肥やすような余裕はなくなっていたのかもしれない。結局、資金の大半は流用された為に殆ど残っていないことが後に判明した。
最高幹部の永野が死亡したため資金の流れに関して解明が難しくなった。結果的に捜査に支障をきたしたため、犯人は関係者に口封じのために殺人を依頼されたのではないかといった憶測も流れた。1986年3月1 2日、大阪地方裁判所で飯田に対し、懲役10年、矢野には懲役8年の実刑判決が言い渡された。それぞれが控訴し、1990年、1989年に刑が確定した。その後、飯田は周りにいたマスコミに犯行の示唆教唆があったとして4度再審請求をしたが、いずれも棄却されている。
犯行に及ぶ前の飯田は「被害者から依頼された」と報道陣に話したが、逮捕後は「年金暮らしの老人をターゲットとして詐欺を働いた豊田商事のに憤りを感じてやった」と供述した。しかし、動機について彼の証言は二転三転し、明確に分からないことなどから「飯田に指示した人物がいる」と黒幕の存在説が流れた。だが、黒幕に関しては、その後の捜査に進展がなく、警察は部外者の関与を否定した。一方、証拠はないにしても「口封じ目的で永野の命が奪われた」と考えるものもいる。
事実、飯田には多額の借金があったことが判明し、飯田の経営する鉄工場は競売にかけられる寸前だったが、事件後に「会社の口座に借金と同額程度の金が振り込まれた」という情報が報じられた。他にも永野は政治家と付き合いがあったため、その政治家が裏献金を受け取っていた可能性があり、圧力をかけたとの推測がある。さらに永野はある宗教の信者で「団体に多額のお布施をしていた」と言われ、この宗教団体が「逮捕寸前だった永野を口封じのため飯田らに依頼した」と噂された。
そうした驚しい話ではなく、飯田が引っ込みがつかなくなって、殺人にまでエスカレートしたという説もある。飯田と矢野は、犯行前40人程の報道陣の前でドアを叩き、怒鳴りちらしていた。そして、満足して「どうだ」と言うような顔を報道陣に向けた。すると「何だ、それで終りか」「あの窓からは入れるぞやっつけに来たんだろう」と報道陣に煽られたことから、殺人にまで及んだというのだ。その後の裁判で飯田は「現場に詰めかけた報道陣に煽られて矢野がやった」と主張している。
この事件の犯人である飯田と矢野は既に刑期を終え、出所している。主犯として懲役10年の判決を受けた飯田は生きていれば、現在93歳になっているはずである。出所後、近畿地方のある都市で、アパートに暮らしていた。また、共犯として懲役8年の判決が下った矢野正計は現在65歳なる。同じ刑務所で服役していた男の証言によると「“俺は刺してへん”が口癖やったな」と話している。ちなみに矢野は出所後、大阪市内で生活していたが、10年ほど前に中国地方へ引っ越したという。