「市川一家4人殺害事件」は、1992年3月5日の夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸2丁目のマンションで発生した強盗殺人・強盗強姦などの事件。暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こした加害者は落とし前として暴力団から要求された現金200万円を工面する為、事件を起こす1か月前に強姦した少女の自宅マンションに侵入。一晩の内に少女の両親と祖母、そして妹の一家4人を殺害。そして、ひとりを残された被害者遺族の少女を凄惨な現場で強姦した。

この事件の犯人である関光彦は犯行当時19歳であったことから、本件は未成年が引き起こした少年犯罪事件ということになる。だが、その余りにも残虐で無残な殺害方法と身勝手極まりない犯行動機から、被告に対する死刑判決が下されるか、否かに多くの注目が集まった。「少年を保護する」という名目であるはずの少年法が事実上、「少年であれば如何なる犯罪を犯しても極刑は免れる」という免罪符となっている。その矛盾はこの市川一家4人殺人事件でも焦点となった。

この事件の発端となったのは、関が行ったある女性に対する監禁行為だった。関は1992年2月6日、市川市で営業するフィリピンパブに勤務する顔馴染みのホステスを連れ出し、その女性を自宅に2日間にわたり監禁した。翌々日の8日に泣きながら店に戻ったこのホステスは関によって自宅に監禁されていたことを経営者に報告した。これに激怒したフィリピンパブの経営者は知り合いの暴力団組員に対し、関への追い込みを依頼する。こうして関はヤクザに狙われることになってしまった。

関は2月12日の深夜2時頃、自転車に乗っていた女子高生の背後から車をぶつけ、転倒させた。そして「病院に連れていく」と声をかけ、女子高生を車に乗せて病院に向かった。最初は警戒していた女子高校生だったが、関が病院で治療を受けさせた事もあって「自宅に送り届ける」という言葉を信じた。その後、関の車は市川方面に向かっていたが、人気のない場所に停車すると、関はナイフを取り出して女子高生を脅迫し、自宅アパートに拉致した。彼女は2回にわたり強姦を受けた。

この女子高生が市川一家4人殺人事件で唯一生き残った長女(当時15歳)だった。彼女は深夜まで勉強を頑張っており、シャープペンシルの芯が切れた為コンビニへと買い出しに行った帰り道だった。それが不幸なことに関に目をつけられることに繫がった。女子高生を強姦した関は持ち物を漁り、財布から現金を奪い取った。そして、生徒手帳から長女の個人情報を入手すると、部屋から出ていった。女子高生はその後関光彦元死刑囚が居なくなったその部屋から自力で脱出している。

関は女子高生を強姦した2月12日の夕方、暴力団組長から東京のホテルに呼び出され、落とし前の現金200万円を用意する要求を受けていた。その後、自宅に戻る途中で偶然女子高生を発見した関は憂さを晴らすために犯行に及んだと考えられている。そして、強姦した後に女子高生の個人情報を知ったことが、その後の大事件に繋がった。その後、関は暴力団組長から要求された200万円を用意できず、取り立てを恐れて自宅にも帰る事が出来ない日々を過ごしていた。

車中泊を繰り返し、手持ちの現金も底を尽きかけていた関は、あの日強姦した女子高生の自宅に強盗へ入る決意する。関は暴力団組長から要求されている金も用意出来る上に、また女子高生を強姦することでストレスも解消することが出来ると考えたからだった。そうして、関は女子高生の生徒手帳に有った住所地に赴き、一家が住む部屋号室や帰宅時間、在宅状況等を調べ上げ、更にはエレベータホールの監視カメラの位置等のチェックをするなど犯行に及ぶ前の下調べを行った。

最も犯行が容易であると判断した夕方頃に被害者宅へ侵入する事を決めた。1992年3月5日午後4時30分頃、事前に被害者宅へ電話を入れた関は誰も電話に出なかった事から被害者宅の留守を確信。監視カメラを避けるために外階段を使って被害者宅の階層迄侵入した後、被害者宅のチャイムを鳴らしましたが、反応が無く、鍵も開いていた為にそのまま犯行に及んだ。侵入後直ぐに祖母が洋室で寝ている事に気がついた関だが、意にせずそのまま室内の物色を開始した。

しかし、現金が見つからなかったことから、関は眠っていた祖母を叩き起こし、脅しながら現金の在り処を尋ねたが、祖母は自ら持っていた現金を差し出した上で、気丈にも今すぐ出ていくようにと関に言い放った。再度、祖母に対し現金の在り処を白状するように迫った関だったが、それに祖母は応じず、急な尿意を催した関は祖母に「通帳を出しておけ」と命じた上でトイレに行った。戻ってみると祖母が警察に通報をしようとしているのを発見したため、近くに有った電気コードで祖母を絞殺した。

その後、祖母のカバンから現金10万円を奪った。関は、その後も被害者宅に居座り、帰宅する家族を次々に惨殺している。その中には、女子高生の父親違いの4歳の妹含まれていた。そして、女子高生は母親と共に帰宅したところを関に襲われ、彼女の目の前で母親が背中に包丁を突き刺されて惨殺された。その直後と、女子高生は強姦されている。その後、関は帰宅した父親の背後から左肩を包丁で一突きして致命傷を負わせた。彼女はその後、ラブホテルへ連れて行かれ、再び強姦された。

 

この事件は一家の父親が経営する事務所のスタッフが警察に通報して、発覚したが、実は事務所スタッフからの通報は2度行われていた。一度目の通報は関と女子高生が父親の事務所に預金通帳と印鑑を取りに行った時だった。その行動に不審を感じ、従業員が近くにある派出所に連絡し、午前1時30分頃に葛南署員とともに被害者宅に出向いた。そこで、部屋のチャイムを鳴らし、電話を架けたが、部屋の照明が消えている上に、応答もなかったため、署員は不在と判断して引き揚げた。

前日の行動を不審に感じていた従業員は、その朝にカネの工面の電話を女子高生から受けたので、マンションへ電話を入れた。電話に出た女子高生は「おはよう」と言った切り押し黙り、従業員が彼女に「脅している奴が側にいるのか?」と訊いたところ「うん」と答えた。彼らは警察に2度目の通報を行い、警察官がマンションを訪れ、隣の部屋のベランダから被害者宅に侵入し、事件が発覚した。もし、最初の通報で事件が発覚していたなら、女子高生の幼い妹は死なずに済んだはずだった。

関一家の環境は非常に荒んだ環境にあった。それは主に父親によるものだった。関の父親は日常的に弟や母親に対して虐待を行っていた。サラリーマンの父親は酒、女、博打に溺れる人間だった。彼は毎晩、酒を飲んでは家族に対し、暴力を振っていた。そして、父親にはギャンブルで負った多額の借金があり、それが家族の生活に重くのしかかっていた。この借金の取り立ても想像を絶するほどの過酷なものであったと言われており、これに耐えかねた母親は子供たちを連れて夜逃げしている。

関は高校に進学するも、たった1年で中退した。そして、母方の祖父が経営する鰻屋の手伝いをしていが、関は父親の様に母親や弟に対し、家庭内暴力を行うようになり、仕舞には祖父の鰻屋の売上金である120万円を盗み出す始末であった。これに激怒した祖父だったが、関は祖父と揉み合いになり、関は祖父の顔面を蹴り上げて、眼球を破裂させるという大怪我を負わせている。この一件で、関は親族からも厄介者扱いされるようになり、ひとり暮らしを始めることになったといわれる。

関の祖父が営んでいた鰻屋は、かつて地元でも非常に有名な店だったそうで、チェーン展開も果していた。これらの事業は祖父が一代で築き上げてきたものだった。しかし、どうしたわけかその後、祖父は事業を畳んでいる。恐らくは関の悪行が廃業の原因になっていると思われる。関は「市川一家4人殺害事件」と呼ばれるこの事件以外にも様々な犯罪に手を染めており、祖父が営んできた鰻屋も評判を落としてしまったのであろう。関は、いつ大事件を起こしても不思議ではない人物であった。

驚くべきことに関は18歳の時に一度結婚している。相手はフィリピンパブに務めていた女性で、その女性とフィリピンで結婚式も挙げ、ふたりの間には子供もいたようだ。この関の妻と子供のその後の情報は一切ない。それというのも、この妻は関と結婚して、僅か3か月後に、病気の姉を見舞うという名目で、子供を連れてフィリピンに帰国し、それっきり日本には帰っていない。おそらくは関からDVを受けていて、耐えられなくなり、病気の姉を見舞うという口実で、フィリピンに逃げ帰ったと思われる。

関が起こした「市川一家4人殺害事件」の裁判での判決は、一審、二審ともに判決は「死刑」であった。少年法で保護される19歳の少年が起こした事件ではあったが、裁判所は関に対し、死刑を言い渡した。その後最高裁まで弁護側が上告を行うも、2001年に関光彦元死刑囚への死刑判決が確定した。関は死刑確定後に心境の変化があったという。彼の生への執着は凄まじく、死刑確定後も、2006年に再審請求を始めて行ったのを始め何度も再審請求を繰り返している。

 

 

再審請求は冤罪事件でも行われるが、多く死刑囚の場合、延命目的であり、関も死刑確定から執行まで、実に16年もの歳月を要した。弁護人のアドバイスで3度の食事と間食を詰め込むだけ詰め込み元々身長180センチ、体重80キロの大柄な身体はさらに大きくなり、体重120キロ超に達した。絞首刑の回避を狙った肥満化のことだが、無駄な努力に終わった。1997年に永山則夫の死刑が執行されて以来、20年振りとなる未成年事件の死刑が執行された。

 

関は「漠然と未成年者ならどんな事件を起こしても、傷害や殺人だろうが全員、鑑別所へ行って、そこから少年院へ入れられるものだという程度の知識しかなかった」と述べて、「死刑なんてものは自分とは縁遠いもので、一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰だと思っていた」との認識を示している。死刑制度に対する楽観的認識には驚くべきものがある。

 

平成の少年犯罪では、初の死刑確定・執行事件(少年死刑囚)となったこの「市川一家4人殺害事件」は日本社会を震撼させ、大きな衝撃を与えるとともに、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ。なお、坂本敏夫は、自著「死刑と無期懲役』」(2010年出版) にて「本事件を日本では1990年(平成2)から1992年までの3年間にわたり死刑執行が停止されていたが、1993年(平成5)3月に再開された。本事件はそのきっかけになった事件ではないか」と指摘している。

 

唯一生き残った女子高生のその後だが、一端、母親の知人の宅に身を寄せた後、母方の実家である熊本県に移り住んだ。その後、美術系の大学に進学し、2000年に卒業したと伝えられている。その後、関の死刑判決が下される前から交際していた男性と結婚した。彼女は、かねてから家族の夢だったヨーロッパでの暮らしを実現させ、幸せに暮らしているとの情報がある。「彼女が幸せ」という情報があることがこの事件を語る上で唯一の救だ。その幸せが続くことを願うばかりである。