神さま、とてもゆるせないんですけど…と思う時 | からし種と空の鳥

からし種と空の鳥

日本キリスト教団 
西宮聖光教会のブログです。
兵庫県西宮市にある小さな教会です。

今日は水曜日なので、今週の日曜日の礼拝メッセージを載せさせていただきます。

 

 

 

今週は、「人をゆるす」ということを思い巡らしました。

 

 

 

2024年度の年間テーマ

~神の栄光をほめたたえよう~

「ほむべきかな、わたしたちの

主イエス・キリストの父なる神」

(エペソ人への手紙1章3節)

 

 

 

 

2024年7月14日のメッセージ

 

「限りのない罪のゆるし

聖書: マタイによる福音書18章21~35節

(一部だけ記します)

 

 

21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

 

 

 

 

先週は、神さまの教えの中でも「最も大切な戒め」を心に刻みました。

 

 

 

イエスさまが教えてくださったもっとも大切な教えである「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」ためには、「ゆるし」は不可欠です。

 

 

 

今日のお話は、十二人の弟子の頭であるペテロの質問に答える形でイエスさまがお答えになった話です。

 

 

キリスト教の「救い」とは、「罪のゆるしである」といっても過言ではありません。「罪をゆるされている」ことが「救い」であり、それが私たちに平安と平和をもたらします。

 

 

***

 

 

イエスさまは、実に個性豊かな12人を弟子に選ばれました。聖書には、弟子たちが誰が一番偉いかとか、仲間に憤慨したという話が出てきます。

 

 

 

しかしイエスさまは、この話の前に弟子たちが共に集い、心を合わせて祈ることを教えられました(15~20節)。それが、後に弟子たちによって建てられていく「教会」の姿、私たちが集う教会です。

 

 

「ゆるし」は、人間が命と平和を得るためには最も大切なことです。イエスさまは、「主人にゆるされた僕」の譬え話をされました(23~35節)。

 

 

23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。

 

 

24 決算が始まると、一万タラント(約6000万円)の負債のある者が、王のところに連れられてきた。

 

 

25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。

 

 

26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。

 

 

27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。

 

 

28 その僕が出て行くと、百デナリ(約100万円)を貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。

 

 

29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。

 

 

30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。

 

 

31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。

 

 

32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。

 

 

 

34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏(ごくり:牢獄の役人)に引きわたした。

 

 

 

35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

 

 

 

この主人は神さま、そして「僕」は私たちです。イエスさまの譬え話では、「ゆるし」とは「借金(負債)」を帳消しにされることです。

 

 

私たちの「借金」、神さまに対する負債など考えたことはないかも知れませんが、聖書には人間が神さまの言葉を守らなければ「死ぬ」と書かれています。

 

 

 

神さまの言葉を無視して生きることを、聖書は「罪」といいます。罪は神さまに背いている状態のこと、つまり自己中心に生きていることです。

 

 

 

罪は、死をもたらします。けれども死なずに生きていられる。それは神さまが刑の執行を伸ばしてくださっているからです。そして、ゆるそうとしてくださっているからです。

 

 

 

神さまが人間をどれほど愛し、人間の罪を赦そうとしてくださっているか、聖書には神さまの「ゆるし」のお言葉が実にたくさんあります。

 

 

*イザヤ書43:25、57:16

わたし(神)はあなたの罪を心にとめない。

 

わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。

 

 

 

「罪」は人を傷つけます。そして、人を「死」においやります。

 

 

人間を造られ、命の息を吹き込んでくださった神さまは、人間が罪を犯し続けて傷つけあい死に至る姿をごらんになって、人間の罪をゆるそうと、何度も語りかけておられます。

 

 

しかし、愚かな人間はその神さまの「罪のゆるし」を受けいれようとはしませんでした。

 

 

だから神さまは、その罪を帳消しにするために、ついにはご自身がいけにえ(犠牲)となって人間を救おうとされました。

 

 

 

*イザヤ書53:3.5

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

 

 

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。

 

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 

 

 

神さまは、人間を罪から解放するために最後の方法としてイエスさまを送ってくださいました。

 

 

それまでの「罪のゆるしのためのいけにえ」である動物にではなく、全人類の罪をイエスさまに負わせ、その死をもって帳消しにしてくださったのです。

 

 

 

それは、罪をゆるされた人間が罪から解放され、神さまの真理に従って自由に生きるようになるためです。

 

 

 

 

だから、自分が「罪ゆるされた者」であるという自覚は、人を断罪するのではなく、善悪を裁かれる神さまにすべてをゆだねて平安でいられます。

 

 

***

 

 

さて、イエスさまはここでは「兄弟」すなわち家族や友人、仲間のなかでの「ゆるし」について語られました。

 

 

「仲間」であれば、「お互い様」で「ゆるし合える」かもしれません。

 

 

しかし、親や先生、上司などの立場の「上」の人間から受けた「パワハラ」による「傷」に苦しむ人も多くいます。夫婦や恋人間のDVもあります。

 

 

「力関係」によって受けた心の傷は(肉体の傷を伴うこともあります)、そうそうに「ゆるせる」ものではないかもしれません。

 

 

また、恐怖に心が閉じ込められて、相手の期待に応えられない「自分をゆるせない」状態になってしまっているかもしれません。

 

 

さらに、「赤の他人」からいわれのない「暴力」をうけたり、命を落とすような被害を受けたとしたら、その相手を「ゆるす」ということが難しいかもしれません。

 

 

 

しかしイエスさまは、悲しみと怒りと憎しみとが混じった複雑な感情も解放してくださるのです。

 

 

 

「ゆるし」とは、「放棄する」という意味の言葉です。「ゆるし」とは「自由にされること」です。

 

 

傷ついた自分を神さまに愛されているかけがえのない子どもとして認める時、自分の中に「ゆるし」が起こります。聖書の「ヨセフ物語り」(創世記37章以下)などがそのことを教えてくれます。

 

 

イエスさまは、この赦しの御業をなされる前に、最後の晩餐でこのように言われました。

 

 

*マタイ26:26.27

26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

 

 

27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

 

28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

 

 

イエスさまは、ご自分の命の代価を払って私たちの罪のみならず、すべての人の罪をゆるしてくださったのです。

 

 

「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」

 

 

 

イエスさまは、傷ついた人をトラウマと傷の痛みから解放するためにも十字架に架かって死なれ、それから復活して「新しい自分になって生きる」ことをお示しくださいました。

 

 

 

また、イエスさまは弟子たちにこのように祈ることを教えられました。主の祈りの一節です。

 

 

「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」

 

 

イエスさまは、罪をゆるしてくだったばかりでなく、私たちも人の罪をゆるせる人間に造り変えてくださいました。

 

 

争い憎み合うこの世界のただ中にあって、私たちは「罪のゆるし」によって与えられる平安と喜びをもって、それぞれに置かれている場所で平和をつくり出す神の子として日々過ごしていきたいと思います。

 

 

 

【黙想・祈り】

父なる神さま。イエスさまによって罪から解放され、自由にされていることを感謝いたします。どうか、私たちが互いにゆるし合い、愛し合い、周りのかたがたにこの神さまの愛とゆるしの恵みを現わしていくことができますように私たちの心をお守りください。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

りんご

 

 

長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

かつて、私は主の祈りの「われらが罪をゆるすごとく」というところを、モゴモゴと「われらが罪をゆるせるごとく」と祈っていました。「ゆるす」って、難しかったです。

 

 

でも、あるとき、ストンとこの祈りが胸に入ってきたのです。

 

 

自分の罪をゆるしていただいているという、その恵みに圧倒されて、「お前が人の罪をとやかく言う筋合いのものではない」となぜか納得したのです。

 

 

知らず知らずのうちに、人を傷つけているかも知れません。また、心がチクりとさせられることもあります。

 

 

でも、イエスさまが現わしてくださった神さまのゆるしの恵みのなかで喜んで過ごしたいと思いますハート

 

 

 
 
カラスの〇ンで、十字架が汚されました
めちゃ腹がたちましたムキー
 
 
だけど、汚れた十字架を見ていたら
イエスさまが私たちを
ゆるしてくださるために
ご自身が忌み嫌われ、
つばきをはきかけられたことを思いました。
 
 
そして、イエスさまのお祈りを
思い出しました。
 
 
「父よ、彼らをおゆるしください。
彼らは何をしているのか、
わからずにいるのです。」
(ルカによる福音書23章34節)
 
 
大雨が降って、
十字架は少しはきれいになりました立ち上がる
 
 
 
キラキラ キラキラ キラキラ
 
 
 
愛餐会は、炊飯器で作った
「チャーハン風炊き込みご飯」でしたニコニコ
思いついて作ったのですが
意外とおいしかったです♪
自画自賛ゲラゲラ
 
 
お花のように
みんながにこやかにすごせますようにうさぎのぬいぐるみ