今日は水曜日なので、今週の日曜日の礼拝メッセージを載せさせていただきます。
受難節第2主日は、「自分の十字架を負う」とはどういうことなのかを思い巡らしてみました。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)
私たちの教会の年間聖句です。
2024年2月25日のメッセージ
「自分の十字架を負うて従ってきなさい」
聖書:マルコによる福音書8章34~38節
(一部だけ載せます)
34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
「自分の十字架」という言葉は、ドラマなどで、重い罪やどうすることもできない苦悩を一生背負って生きる人のセリフとしてもよく耳にするのではないかと思います。
そういう人にとっては、イエスさまがその人に「自分の罪の重さをしっかりわきまえて私についてきなさい」という、招きの言葉のようにも読めます。
しかし、イエスさまはそういう意味でお語りになられたのではなさそうです。
なぜなら、イエスさまの十字架によってすべての人の「罪」が取り除かれているのですから、もはや自分の罪の「刑罰」のための十字架は負わなくてよいはずだからです。
今日は、なぜイエスさまが「自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われたのかを考えてみたいと思います。
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マタイとルカの福音書には同じ話が出てきますが、ヨハネは別のところでイエスさまに従うとはどういうことかを書きしるしています。
ヨハネが伝えている話を参考にしながら、「十字架を負う」ということの意味を考えてみたいと思います。
*ヨハネ21:18.19
18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。
しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
これは、十字架の死から復活されたイエスさまがペテロに語られたお話です。
ペテロはイエスさまが言われたとおり、やがて自分も「行きたくない所へ連れて行かれる」-つまり、彼は命を賭して自分たちを救ってくださったイエスさまの道に従いました。
イエスさまの福音を伝えるために行きたくないところに連れていかれる、それもまさに「十字架を負う」歩みだと思います。
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*マルコ8:36.37
36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
イエスさまは、「十字架を負って従う」ことが「命を得る」道であることを教えます。
この命とは、ただ飲んで食べて過ごす命ではなく、「活き活きと生きる命」、「この世だけで終わらない神から与えられる命」、その命によって生きる道をお示しくださるのです。
*マルコ8:38
38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
今もなお、「邪悪で罪深いこの時代」です。競争社会の中で、他人を蹴落としてでも勝ち抜かないと生きられない時代です。
「自己中」にならないと、邪悪なこの世界では生き延びられません。
だから、自分の命を損したくないから見て見ぬふりをしてしまいます。
自分と、自分の所属する「○○ファースト」が横行しています。
しかしイエスさまは、ご自分では十字架を負う必要などまったくなかったのに、邪悪で罪深い世と人のために十字架にかかってくださいました。
十字架は、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国の処刑の道具です。それは、呪いと恥の象徴でした。
イエスさまはその時代の指導者の妬みと、煽動された群衆たちによって「無理やり」十字架につけられました。
いわば、「貧乏くじ」を引いたようなものです。
しかし、それによって全人類の罪が贖(あがな)われたーつまり、神さまがその罪を帳消しにしてくださったのでした。
どんな罪人もキリストの十字架によってその罪がゆるされ無罪放免にされる、聖書はそのように教えています。
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私たちが負う、それぞれの「自分の十字架」を考えてみましょう。
この世の罪のために悲しみ、苦しんでいる人も多くおられます。戦争被害者、放射能汚染地に住む方々、貧困にあえいでいる方々‥
私たちは、その人たちを見て見ぬふりはできません。
しかし、それは自分も多少犠牲にならざるをえません。自分の時間、自分のお金、自分の体を捧げることになるのですから。
イエスさまもご自分が負わされる十字架を取り除いてくださいと、父に切に願い祈りました。しかし、最後はこう祈られました。
「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。(マルコ14章36節)
たとえ自分に不利益になろうとも、共に苦しみ、共に悲しみ、そして私たちの罪のために最大の貧乏くじを引いたくださったイエスさまを指し示したいと思いと思います。
十字架を負う歩みは、決して歯を食いしばっていやいや歩む道ではありません。十字架の重みはイエスさまがご存じです。そして、その重みをイエスさまが共に担ってくださいます。
*マタイ11:28~30
28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29…わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
十字架の重みは、それぞれに違います。それぞれが担える重さの十字架です。
ペテロは「殉教」という重さの十字架を負いました。しかし、すべての人が同じ十字架を負うのではありません。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」
「自分を捨て」、それは「自分ファースト」を考えなおしてみることから始まります。
まことの命を得る十字架の道は、苦しいことばかりではありません。
ひとりでも苦しみから逃れることができたら、それにまさる喜びはありません。
さらに、本当は「貧乏くじ」などではない、神さまの豊かな祝福が伴う「大当たり」であったことが分かると思います。
イエスさまに助けていただきながらそれぞれの十字架を負って歩み、イエスさまとともにこの喜びにあずかりたいと思います。
【黙想・祈り】
神さま。邪悪で罪深いこの世に生きる私たちが罪ゆるされ、命の道を歩めるようにしてくだることを感謝します。自我にしがみつくのではなく、この世で傷ついている魂が救われるために、あなたの命の道を他の方にお示しし、共に歩むことができますように導いてください。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
わかるようでわからない「自分の十字架を負う」ということを考えてみました。
たぶん、今日のイエスさまのお言葉を「愛唱聖句」に選ぶ方は少ないだろうと思います
でも、イエスさまが負ってくださった「愛の十字架」をいつも思い浮かべてイエスさまの後に従っていきたいと思います。
世界が平和になりますように。悲しんでいる人が慰められますように。そして、私たちが喜びの日々を送れますように
「主にのみ十字架を 負わせまつり
われ知らずに あるべきかは
わが身もいさみて 十字架を負い
死にいたるまでも 仕えまつらん」
(讃美歌331番1.3節)