今日は水曜日ですので、今週の日曜日の礼拝メッセージをお届けします。
今週は、復活節第5週。ルカ福音書が伝える、復活されたイエスさまと出会った弟子の話を読みました。
でも…最初は、イエスさまだとは気づかなかったんですって…。
私たちも同じかも…と思いながら読みました。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)
私たちの教会の年間聖句です。
2023.5.7のメッセージ
「わたしたちと一緒にお泊りください」
聖書:ルカによる福音書24章13~36節
(一部だけ載せます)
25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
今日は、どうしたら復活のイエスさまとお出会いすることができるのかを考えてみたいと思います。
*ルカ24:13~16
13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
この日、それはイエスさまがよみがえられた日のことです。七マイル(11㎞)のところにあるエマオという町に向かっていた二人の弟子の目は「さえぎられて」いて、せっかく近づいてくださったイエスさまのことがわかりませんでした。
「さえぎられて」とは、支配されて、捕らえられて、固執してという意味の言葉です。彼らの目は、何に支配され、何に固執していたのでしょう。
「常識」や、「目に見えるものだけを信じる理性」かもしれません。今の時代、まさに私たちの目は、目には見えない「真理」に対して、心の目が遮られていると思わされます。
*ルカ24:17.18
17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互(たがい)に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、
「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
「イエスさまがよみがえって生きておられる。」本来だったら、うれしいニュースです。しかし、彼らはそれを自分で確かめることもせずに、元の生活に戻ろうとしていたのです。
何か、事情があったのかもしれません。けれども、彼らはさっさとイエスさまに見切りをつけて、自分たちの生活の立て直しを考えていたように思います。
ある意味、この二人は「切り替え」が早いのかもしれません。自分が生きていくためには、次のことを考えなければなりません。
この弟子の姿は、私たちの不信仰の姿を思わされます。
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*ルカ24:25~27
25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
「愚かで心のにぶいため」…イエスさまがすでに教えてくださっていたことなのに、それがピンとこない、愚鈍な信仰だと言われるのです。耳が痛いです。
27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
*ルカ24:28
28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
「泊まる」という言葉は、実に象徴的な言葉です。泊まる、留まる、居続ける、残る、また、待っている、待ち続けるという意味の言葉です。
イエスさまは、ただ一晩泊まるだけではない、この愚鈍な弟子とずっと共に居続けるために、その晩、一緒に泊まってくださったのです。
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*ルカ24:30~31
30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
イエスさまがパンを渡してくださる一連の所作を見ているうちに、彼らはハッと気がつきました。
この方は、まさしく、5,000人以上もの人に十分なパンを食べさせてあげた時のあのイエスさまです。
彼らの目は開かれて(受動態)、はっきりと悟ることができました。
「すると、み姿が見えなくなった。」
ある神学者は、「これはイエスさまがパンの中にお姿を隠されたのだ」と言いました。
イエスさまは、私たちとこれからもずっと一緒にいてくださるために、パンの中にお姿を隠されたのです。
世々の信仰者たちは、教会の大切な「儀式(聖礼典)」として「聖餐式」を大切に守って来ました。
聖餐式のパンは、まさしくイエスさまご自身、私たちに命を与える命のパンであることを覚えたいと思います。
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*ルカ24:32
32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
心が燃える-点火される。火をつけられたのです。何によって?神さまのみ心と力の現れである「聖霊」という火種によってです。
33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
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プロテスタント教会では、教会が教会であることの指標は、聖書のみ言葉が正しく語られ、洗礼と聖餐式という二つの聖礼典が正しく行われていることだと言われます。
み言葉と聖餐でいただくパンによってイエスさまの臨在を味わい、イエスさまが私たちの内に住んでくださるという恵みを、すべての人が悟ることができるようにと願います。
【黙想・祈り】
父なる神さま。復活されたイエスさまと今日も出会わせてくださることを感謝します。自分の考えと感覚に頼り、目が閉ざされていることにさえ気がつかない愚かで鈍い私たちをどうかあわれんで聖霊をお送りください。そして私たちと共にいてくださるイエスさまの導きによって、これからの日々を歩ませてください。
イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。
長い話にお付き合いくださり、ありがとうございました。クリスチャンでない方には(クリスチャンにも)わりにくい話だったと思います。すみません。
クリスチャンは、イエス・キリストが今も生きておられるということを信じています。
そんなアホな!…でも、神である聖霊が私たちに臨んで心の目を開いてくださり、この恵みを悟らせてくださいます。
イエスさまが今日も共にいてくださり、私たちを守り、支え、慰め、助けてくださいますように
聖餐式は毎月第1主日に行っています。
十字架の下に
イエスさまの血潮であるぶどう汁と
御体であるパンが置かれています。
今朝、十字架のそばに
お月さまが見えました!
お月さまが、かじりかけの
パンに見えました