今日は水曜日ですので、今週の日曜日の礼拝メッセージをお届けします。
今日から、教会暦では「受難節(レント)」に入ります。復活日の前日、4月8日までの主日を除く40日間です。
十字架に向かわれるイエスさまの歩みを覚えて、「悔い改め」と「節制」をして、イエスさまの十字架の恵みを心に刻みます。
「あなたがたは神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また、愛のうちを歩きなさい。」(エペソ人への手紙5章1.2節)
私たちの教会の年間聖句です。
2023.2.19のメッセージ
「狭い戸口から入るように」
聖書:ルカによる福音書13章22~30節
(一部だけ載せます)
22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。
23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
いよいよ「受難節」を迎えます。イエスさまが、世界のすべての人の救いのために十字架を負われた歩みを少しでも追体験して、救いの恵みを改めて心に刻むことができたらと思います。
今日の聖書箇所は、正直いってよくわからないお話です。しかも、随分と厳しいイエスさまのお言葉です。
「救われる人は少ないのですか?」―この質問の真意も実のところわかりませんが、今日は私たちがどうしたら救われるのか、ということを考えてみたいと思います。
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「主よ、救われる人は少ないのですか」-この質問には、少数の選ばれた弟子にならなければ救われないのか?という切実な思いが込められているように思います。
しかし、イエスさまはこの人の質問には直接答えずに、「狭い戸口からはいるように努めなさい」と言われます。「戸口」というのは「門」と同じ意味ですから、「狭い門」といってもよいかと思います。
イエスさまのこのお話はちょっと分かりにくいので、平行記事のマタイ福音書も参考にしながら考えたいと思います。
*マタイによる福音書7:13.14
13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
「狭き門」というと、競争率の高い難関の試験をイメージします。けれども、この狭い戸口、狭い門は「命に至る門」だというのです。
このあとのイエスさまのたとえ話を読むとわかるのですが、この「狭い門」は「神の国」に通じる入口です。そして、多くの人は「はいろうとしても入れない」と言われるのです。
これは、すべての人を救いに招いているイエスさまのお言葉にしては、随分厳しいお言葉です。
なぜ、多くの人がその狭い入り口からはいろうとしても入れないのでしょう。
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マタイは、この後でイエスさまのこのような言葉を伝えています。
*マタイによる福音書7: 15
15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
偽預言者は、ただ自分の欲のために羊である神の民を獲物にするためにやってきます。羊が滅びようが獣に食われようが、知ったことではありません。
羊の関心を引くために、神さまの言葉を都合よく利用して、調子のいいことをいいます。
偽預言者は、大きな扉にばかりに目を向けさせて、狭い戸口を素通りさせます。
富で誘惑し、得た財産を手放せなくさせるので、荷物が多すぎて狭い門をくぐれません。
さらに、人を尊大にさせ、へりくだって身をかがめることなど到底できなくさせます。
しかし、そもそも「家の主人」である主が当然「家」に入れてくれるものと思い込ませるのです。
偽預言者は、「あなたたちはアブラハムの子孫、神に選ばれた民だから大丈夫」と、形式的な信仰生活を送っていたユダヤ人を安心させていたのです。
*ルカ13:25
25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
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この、「狭い戸口」とはいったいどういう入口なのでしょう。イエスさまがこのお話を語られたのは、エルサレムに向かわれる旅の途中です。
この後、イエスさまはエルサレムで行われた過ぎ越しの祭りの時に、十字架につけられて殺されました。おそらくこの時は、その覚悟を決めておられたのでしょう。
「狭い戸口」、それはイエスさまがご自分を捨てて「恥と苦難」の十字架を負ってくぐられた命に至る門の扉です。
しかしそれは、誰もが避けてしまう狭い門、狭い戸口です。
でもイエスさまは、注意深く「ある一言」を付け加えて語ってくださっています。
「狭い戸口から入るように努めなさい。」
「努める」という言葉は、努力する、競技する、戦う、奮闘する、苦闘するという、ちょっと覚悟のいる言葉です。
けれども、「入りなさい」でなはく「入れるように努めなさい」とおっしゃるのです。
キリスト者であると言っても、イエスさまに従って行くのは、ちょっとしんどい時があります。「そんなん、ムリです」と言いたくなる時もあります。
しかし、「努めなさい」とイエスさまは、私たちを励まされるのです。
安穏と皆と一緒に広い入口からぼーっとついていったらとんでもないことになるんだよ、とイエスさまは教えてくださっているように思います。
ちょっとしんどいけど、少しだけ努力して、自分自身と戦って、踏ん張ってこの門から入っていく者たちは、だれでも神の国の宴会の席に着けるのです。
受難節の間、十字架を負われるイエスさまのお姿を思いつつ忍耐をまなび、神の国に至る狭い門をくぐって歩むことができますように。
【黙想・祈り】
父なる神さま。あなたの御国に入るのには、狭い戸口を見つけ出さなければなりません。 でも、その道をイエスさまの十字架によって示されていますから感謝します。どうかこれからの日々、狭い戸口から入ることをいとわずに、イエスさまに従って歩む勇気と力をお与えください。
イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
長くなったので、おまけはありませんが、神の国(天国)の門である「十字架」の写真をご覧ください。
イエスさまが、この門をくぐれるようにしてくださいました!
カトリック田辺教会の納骨堂の十字架です!
天国に続いているように見えました
関係ないけど…
今日はにゃんにゃんの日なので
教会の集会室のカレンダーのにゃんこ
「わたしも天国にいくのよ~」
そして今日は、いつも写真をおかりしている
HKさんの4回目の記念日です。
HKさんの写真です。
HKさんが、「オオイヌノフグリ」に
「ヴェロニカ」というステキな名前が
あることを教えてくださいました。
天国は美しくて、
たのしいところだろうなあと、
思いを馳せています