山崎陽子さん

から生還

希望の星

がんばらない、あきらめない、希望をすてない


1948年
0
東京都に生まれる 
1974年26

東京医科歯科大学医学部卒業。諏訪中央病院で地域医療に携わる


1988年40 諏訪中央病院の院長に就任。
一貫して「住民と共につくる医療」を提案、実践してきた。
現在諏訪中央病院は地域医療のモデル病院のひとつとされ、利用者視察者が耐えない。
1994年 10年間チェルノブイリの救護活動に参加し、その活動で、「信濃毎日新聞賞受賞」
2000年 チェルノブイリの活動で、ベラルーシ共和国大統領より、フランチェスカ・スコーリヌイ勲章を授賞
2001年 NHKテレビ、「あきらめない」「病院なんかきらいだ」(集英社)人間ゆうゆう」、TBSドラマ「がんばらない」、「徹子の部屋」出演
著書 「がんばらない」「

goldenhorse(26c)のブログ 書いてあるよ。先月来たんだっけ。「此処が死ぬ場所にいい」 って書いてあるよ(笑い)爺ちゃんが具合が悪かった時、僕は 此処に夜でも真夜中でも来て、ちゃんと看取るから。これは、平成十四年二月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである

goldenhorse(26c)のブログ 八年程、父と三世代家族は過ごすことができて、父は八十八歳 で、糖尿病はあったんですけども、やはりと同じように、脳 梗塞で倒れるんです。のことがあったじゃないですか。人工 呼吸器に繋げてしまって、はそれを喜んでくれたかなあって、ずーっと疑問を 抱えながら、僕はいたので、父が看取る時は、家族の中で、出来るだけ人間らし い、人間的な死を迎えさせてあげたいなあ、と思っていたんですよ。でも、最後 って、分からないじゃないですか、どうなるかってね。脳外科の先生方や内科の 先生が協力してやってくれたんですけども、父は八十八歳ということもあって、 徐々に徐々に悪くなって、二ヶ月治療して、血圧がどんどん下がっていくんです ね。「血圧が五十、脈拍が触れにくくなりました」って、僕は看護婦さんに呼ばれ て、病室へ行きました。病室は個室にいたんですけど、開けた瞬間に、僕はほん とに、こういう光景を見るとは思わなかったんですけども、音楽が流れていたん ですよ。

88-18 70  71 29+18=47青森なんですね。八十五歳位から晩年になると、津軽が恋しく て、小学校卒業して出て来た父は、津軽恋しいというか、故郷 恋しくって恋しくって、という感じで、毎日高橋竹山(ちくざん)さんとい う目の見えない三味線の方の曲を、ビールを飲みながら、いつ も八ヶ岳を見ながら、その音楽を聴いているんです。僕は、ず ーっといつも、「ああ、八ヶ岳を見ながら、父はほんとに八ヶ 岳を見ているんじゃなくて、その向こうにある岩木山・津軽富士を見ているんじ ゃないかなあ」なんて思っていたんです。その津軽三味線が、ほんとに父の耳元 で、静かに流れているのを聞いて、凄いと思った瞬間、目を父のベッドの方に向 けたら、僕の子どもたちや僕の女房が、岩次郎さんの手と足を─ベッドの上にビ ニールが敷かれて、洗面器が置かれて、お湯が張られて─家族 みんなで手と足を洗ったり、マッサージをしてあげたり、爪を 切ってあげたりしていたんです。岩次郎さんは、血圧五十で、 三途(さんず)の川を渡っているんじゃないかなあ、と思われるシチュエ ーションの中で、故郷の曲を聞きながら、孫たちに手と足をお 湯で洗って貰って、フワフワッとして、気持がいいだろうなあ、 と思った時に、「ああ、この人に拾ってもらって、育ててもら ったけども、ああ、これでいい」というふうに思えたんですね。 は、ああいうふうに看取ったけども、父はきっと、「ああ、良かったよ」って、 誉めてくれるかなあ、というふうに思えたんですね。それは、僕にとっては、父 とを看取った、看取り方のところで、僕の医療観みたいなのができてきて、僕 が関わる患者さんには、同じように人間らしく看取ってあげられないかなあ、と いうふうに思うきっかけになりましたね。