半年後に、心臓 弁膜症の手術が成功して元気になっていたが、東京から僕の家へ─もう茅野へ 赴任していましたので─遊びに来ている時に、脳卒中になってしまったんです。 その時、僕の大学時代の同級生で大変仲のいい親友が、内科医で此処に務めてい てくれた。その親友が母親の主治医になってくれて、一生懸命治療してくれたけ れど、どんどん病気は悪化をして、今でいう脳死状態に近い状態になるんです。 goldenhorse(26c)のブログ その同級生の主治医が、「鎌田、もうやるだけのことはやったけど、ここまでだ よ」って言うんです。僕は見ていて分かったので、「ウン、分かった」って、「親 父に僕がいうから」という話で、僕は、親父に、「母さん、もうダメだから。やる だけのことを全部やった。もう殆ど呼吸が止まりかかっていて、心臓はまだ動い ている」と。それで、親父が、「分かった」と言った後に、僕が、「だけど、その 心臓が動いているので、母さんの口の中から気管チューブを入れて人工呼吸器に 繋げば、もう一週間位もつかも知れないけど、もう対光反射もないし、脳が死ん だという証拠の、そういう状態だから、父さん、母さんがよくなることはないか ら、母さんは、助かる見込みがないのに器械を入れるのは、僕は、望まないと思 うから、これで終わりにしてあげた方がいいと思う」と言ったんです。その時に、 親父が手をワナワナと振るわして─凄い厳しかったんですけど、高校三年の時に、 僕は父とぶつかり合って、父が、「お前に自由をやる。好きなように生きていい」 と言って、僕は医学部にいくわけです。それ以降、父は僕に自由をくれて、まっ たく僕の生活の仕方にあれこれいうことをしなくなったんです─ひさびさに父に 怒鳴りつけられて、「お前の目の前にいる、お前の大事な母親だろう! その人が 死のうとしているのに! 俺だって分かるよ。素人の俺だって、お母さんが助から ないのは。だけど、一秒でも生きて貰えたいんじゃないか!」というんですよね。 「人工呼吸器に繋げ」と言うんです。「助からないのは、俺だって分かるけど、人 工呼吸器に繋いでくれ」と言うんですよ。その時に、僕は、が大好きで、その 大好きなを大事に看てあげたいから、人工呼吸器に繋ぎたくなかった。父は、 死ぬのは分かっていても、一秒でも生きて貰いたいから、人工呼吸器を繋ぎたい。 僕は、父の気持ちが痛いほど分かった。僕の考え方は今でも間違ってはいないと 思っているんです。僕は、友人と相談して、人工呼吸器に繋いだ。一週間後、心 臓が止まって、は亡くなったんです。その時に、父親が初めて、僕に─父はな んとなくシャイな人で面と向かって誉めてくれることをしない人だったんです─ 初めて、「よくやってくれた。大変だったけど、ほんとによくやってくれた」と言 って誉めてくれたんです。その一週間は、父にとっては、多分と別れる心の決 着をする大切な一週間だった、と思うんですね。でも、僕は、「にああいうふう にして良かったものだろうか。はあれを望んでくれたかなあ」って、ずーっと 不安な思いでいました。
goldenhorse(26c)のブログ はい。だから、僕は、その時に、父に約束したんです。「分かっている」って。心 臓外科が始まる頃に、東京女子医大で、榊原先生という大変有名な心臓外科医に、 父はの手術をしてもらうんですね。その苦労をずーっと僕は見ていた。その最 先端の技術で、が元気になったのも見たので、僕はやっぱり医学に憧れたんで すね。やはり困っている人たちを助けれるような医者になりたい。だけども、父 との約束をずーっと守ろうと、今までしてきたんです。 ナレーター: 大学卒業後、地域医療に魅力を感じていた鎌田さんは、諏訪中 央病院の内科医として着任しました。医師になって五年目、鎌 田さんはある事実を知ります。初めて手にした戸籍を見て、自 分が養子であることを知ったのです。それまで入学や結婚など、 戸籍が必要な手続きは、すべて父・岩次郎さんが行っていまし た。 唖然としましたよ。はずーっと心臓弁膜症があって、しかも、が四十ちょっ と過ぎた位の時に生まれた筈になっている子なので、よく考えれば、には産む 体力はなかった。産める健康状態ではなかった筈です。僕が後から考えれば、あ あそうだったのかなあって、思い当たることは幾つかあったんですね。 42+24+5=71

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鎌田さんの幼い時の記憶には、いつも心 臓の病で苦しんでいた・ふみさんの姿があ りました。手術するしか助かる見込みがない 重い病でした。治療費を稼ぐため、父・岩次 郎さんは、タクシー運転手として、朝から深 夜まで働きました。懸命に働く父の姿を見ながら、鎌田さんは育ちました。 はずーっと入院生活をしていま した。父親はを治したいという夢をもっていて、タクシー運 転手をしながら、朝早くから夜中まで、もう兎に角いっぱい仕 事をして、お金を稼いで、を治すというのが父の夢だった。 僕は、朝早くから父から与えられた仕事がある。日曜日にいつ もの病院へ行って、一日中病院のの─僕は一人っ子で、甘えん坊だったんで す─母親のベッドの中に潜り込んで、日曜日ずーっと一緒に居た。小学校三年か 四年になっても、のベッドに潜り込んで一日過ごしていたんです。同室のみん なから、「甘えん坊だね」と言われていたんです。父は、恐くて厳しい人だった。 のところへ行けば、は弱いけど、いつもそこに居てくれて、僕の話を聞いて くれた。そういうを見ていました。高校三年生の時に、「医者になりたい」と父 に相談をしたんですね。 。「家計のことをよく考えろ」と言われて。「俺は母さんの面倒を見るのが精 一杯で、お前の面倒をこれ以上みれない」と。 父は小学校しか出ていなかったのです。青森出身だった んです。小学校を出て、青森に居ても食べていけない。子どもがたくさん居て、 末っ子だったんです。東京に出て来て、苦労して、そしてタクシーの運転手で生 活をしていたんです。ですから、「国立大学へ行けば、そんなに授業料はかからな い」というのは、父には分からなくて、「医学部というのはとても大変なことだ」 というふうに、父は思ったみたいです。「絶対ダメだ」と。何度も何度も父にお願 いするんですけど、「ダメだ」というんですね。最後に父親は、「もうそんなに言 うんだら、好きなようにしろ。もう今日から食べることも、それからもし万が一 運良く大学が受かった時にも、大学の授業料や教科書代も全部自分でやれ」と。 親父が、これが言いたかったんだろうなあ、と後でだんだん分かってきたんです けども、「家(うち)みたいに貧乏な家の人間が、病人を抱えて、どんなに苦しんできた か、お前も見ただろう。その弱い人、貧乏な人のためになる医者になれよ。弱い 人たちの気持ちが分かる医者にならないとダメだぞ」と言ったんですね。