goldenhorse(26c)のブログ 母親は世間の目を気にして生きていた。彼女が美容師の学校に行こうと思っても、中学卒業じゃ恥ずかしいと反対した。何度も生きなおしたいと思っていた彼女は、母親にチャンスの芽を摘み取られたと思っていた。昨夜のNHKラジオ放送を聞いて、普通のお医者さんとは随分違った方だと思い、ウェブサイトでお名前を入力して貴ブログに巡り会いました。そして、大平光代さんに関する投稿を拝読して、私も投稿した次第です。大平光代さんはかって大阪市役所助役に就任されましたが、残念ながら周りの彼女を支える環境がとぼしくて間もなく辞任されるということがあったことを思い出します。同じ弁護士出身で意気揚々と活躍している大阪府知事の橋下徹さんがいますが、彼は知事職、その自治体のトップでしかもその権限は絶大ですね。それに対し、市役所の助役はナンバー2の存在、少なくともトップである市長の全面的な支えがないと務まらない、という難しさがあって、残念なことであったと思っております。

さて、鎌田先生のラジオ放送を拝聴して、その人が社会に対して真摯な関わり合いに出来る範囲で努めることが肝要であることを痛感いたしました。

最後になりましたが、先生のイラクでのご活躍がご無事に遂行されますようご祈念申しあげます。回、この記事を拝見して、「比べない生き方」

それが答えのひとつなのかと感じました。

鎌田先生、大平さん、これからも頑張ってください。

2、希望の育てかた
「今日、あなたは何をしたいのですか?/あした、かなえたい夢はありますか?/命を輝かせるのは地位やお金ではないと思う。/それは夢であり、希望。/希望を育てるのが難しい時代に、/希望の育てかたを、/いっしょに考えてみませんか。」
3.生きるってむづかしい
「生きていると、辛さが待ちかまえている。/生きていると、悲しみが待ち伏せしている。/がんばりたいのにがんばれない人も、/がんばれない自分を好きになれない人も、/こだわりを捨てられなくて苦しむ人もいる。/いいじゃないか、あるがままで・・・・・/生きるヒントを見つけた。」
4、誰かのために生きたい
「ふとした出会いが、互いにその後を/大きく変えてしまうことがある。/誰かのために生きたい。/ぼくは生きることの意味を探して歩く。/人と人の支えあいが、/人の命を救い、/人生を輝かせることに気がついた。」6、家族のチカラ
「人と人とのつながりのなかでしか、/人は生きられない。/いい家族があったらいいな。/家族はあるものじゃなくて、つくるもの。/命を宿し、育て、支え、看とり、/そして忘れない。それが家族の役割。/家族のチカラを信じたい。」
ベストセラー『がんばらない』で知られる医師・鎌田實。3歳の時、が長い闘病生活に入る。医療費を稼ぐためタクシー運転手に転職し、人一倍働いた父の口癖は「貧しくとも立派に生きろ」。友達と遊ぶこともままならず、夜は一人で留守番。 ...
大平光代の行動変容は、組長の妻から弁護士へ、というセンセーショナルなものだけではなかった。

 4年前、先輩弁護士と再婚し、出産。兵庫の山の中で暮らしている。せっかく弁護士になったのに、その活動は5%程度にとどめ、残りの95%を子育てに注ぎ込んでいる。

 子どもは、ダウン症という障害をもって生まれてきた。生まれてすぐに心臓の手術をした。白血病の治療もしたという。

 そんな話を聞くと、どこまで苦難が続くのだろう、とつい思ってしまう。しかし、違っていた。彼女は「幸せだ」とニコニコして言う。

1948年
0 東京都に生まれる
1974年 26 東京医科歯科大学医学部卒業。諏訪中央病院で地域医療に携わる
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1988年40 諏訪中央病院の院長に就任。
一貫して「住民と共につくる医療」を提案、実践してきた。
現在諏訪中央病院は地域医療のモデル病院のひとつとされ、利用者視察者が耐えない。
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1994年 10年間チェルノブイリの救護活動に参加し、その活動で、「信濃毎日新聞賞受賞」
2000年 チェルノブイリの活動で、ベラルーシ共和国大統領より、フランチェスカ・スコーリヌイ勲章を授賞
2001年 NHKテレビ、「人間ゆうゆう」、TBSドラマ「がんばらない」、「徹子の部屋」出演
著書 「がんばらない」「あきらめない」「病院なんかきらいだ」(集英社)
 ①諏訪中央病院に赴任し、医者になって5年目、初めて手にした戸籍を見て自分が養子である事
を知った。(今迄、戸籍が必要な時はすべて父岩次郎さんが処理していた)

  ②それを知った時、唖然としたが、よく考えれば母は?狭窄症があって40ちょっと過ぎに生まれた事
になっている。その時、母にはその様な健康状態ではなかった筈で、後から考えればそうだったのかな
と思い当たる事がいくつかあった。本当に父と母が必死になって自分の子として育ててくれた事がや
っと分かった。父と母も私が知らない前提で一生懸命接していたので、私も知らないふりをしてい
た。それ以来、父と母を本当に大事にしなければいけないと思った。①父と母を大事にしなければと思った半年後、母の手術が成功して元気になり、母がこちらに遊びに
来ている時に脳卒中になってしまった。私の大学時代の同級生で内科の親友が、この病院勤めて
いて、母の主治医になって一生懸命治療してくれた。しかし病気はどんどん悪化して、今で言う脳
死状態に近い状態になった。

  ②親友が「鎌田やるだけの事はやったけどここ迄だよ」と言った。私も見てて分かった。そして親父に
「母さんもう駄目だ。やるだけの事は全部やった。もう呼吸が止まりかかっていて、心臓はまだ動いて
いる。心臓が動いているので口から挿管、気管チューブを入れて人工呼吸器につなげば、もう1週
間ぐらい持つかも知れないけれど、対光反射もないし、脳が死んだ証拠だから、母さんが良くなる事
はない。絶対助かる見込みはないのに機械を入れるのは、そぐわないからこれで終わりにして上げた
い」と言った。

  ③おやじが手をワナワナと震わせて久し振りに父に怒鳴りつけられた。(父は厳しかったが、高校3年
の時父とぶつかり合って、父は自由をやると言って、好きな様に生きていいと言われ医学部に行った
が、それ以降全く生活の仕方等にあれこれと言う事はしなくなっていた)

   「お前が目の前にいるのはお前が一番大切な母親だろう。その人が死のうとしているのに。俺だって
分かるよ、素人の俺だって。母さんが助からない事は。だけど1秒でも生きて貰いたいのでないのか」

と言い、人工呼吸器につなげと言った。

 ④その時、私は大好きな母を大事に診てあげたいから人工呼吸器につなげたくなかった。一方父は
死ぬのは分かっているけれど1秒でも生きて貰う為に人工呼吸器につなぎたい。私の考えも今でも
間違っているとは思わないけれど、父の気持も痛いほどよく分かる。そこで、友人と相談して人工呼
吸器につないで、1週間後に心臓が止まって母は亡くなった。

  ⑤その時に初めて父が面と向かって、「大変だったけれどよくやってくれた」と褒めて呉れた。(父は何と
なくシャイな人で、褒めて呉れる事はしない人だった)父にとってこの1週間は、母と別れる心の決着
をする大切な1週間だったと思う。こういう事があって、母はこの処置を望んで呉れたのかなとずっと
不安な思いでいた。 ①母親を看取って10年後、父岩次郎さんを東京から呼び寄せ、一緒に生活を始めた。

  ②8年程父と3世代家族が過ごす事が出来たが、父が88歳の時、母と同じく脳梗塞に倒れた。母
の最後人工呼吸器につなぎ、果たして母はそれを喜んでくれたかなとずっと疑問を抱えながらいたの
で、父を看取る時は家族が見守る中で出来る限り人間的な死を迎えさせてあげたいと思った。

  ③いろんな治療を内科の先生達が協力してやって貰ったけれど、88歳という事もあり、徐々に徐々
に悪くなって、2ケ月治療して、血圧がどんどん下がって、「血圧50、脈拍が触れにくくなりました」と
看護婦さんに呼ばれ病室に行った。

  ④病室を開けた瞬間、こういう情景を見るとは思わなかった。音楽が流れたいた。父の枕元に小さな
カセットテープが置かれていて、故郷青森の津軽三味線が流れていた。(小学校を卒業して東京に
出て来た父は、85歳ぐらいから津軽恋し、故郷が恋しくて恋しくて、毎日高橋竹山さんという目の
見えない方の三味線の曲をビールを飲みながら、八ケ岳を見ながら聞いている。父は八ケ岳を見て
いるのではなく、その向こうにある岩木山(津軽富士)を見ていたのではないかと思う)

  ⑤その津軽三味線が父の耳元で静かに流れているのを聞いて、すごいと思った瞬間、目を父のベッド
の方に向けたら、ベッドにビニールが敷かれ、洗面器が置かれ、お湯が張られ、女房や子供達が、
岩次郎さんの手と足をみんなでマッサージをしたり、洗ったり、爪を切ったりしてあげていた。岩次郎さ
んは血圧50で三途の川を渡っているのではないかと思われるシテュエーションの中で、故郷の曲を
聞きながら孫達に手と足をお湯で洗った貰って、ふわっとして気持良いだろうなと思った時に、この人
に拾って貰って育てて貰ったけれど、これでいいと思った。父はきっとこれで良かったと褒めてくれるか
なと思えた。

  ⑥私が父と母との看取り方の所で医療観みたいなものが出来て来て、患者さんにも同じ様に看取っ
てあげられないかなと思うキッカケになった。

⑦日本の教育力は、学校の教育力だけでなく地域の教育力と家族の教育力があって、日本人の
不思議な力を作って来た。今日本は家族の中のつながりとか教育力がうんと低下している様な気
がする。私の家族は血のつながっていなかった事によって、逆に凄い努力をしながら、お互い大事に
し合ったり、そして非常に良かったのは、お互い一人ひとりの人間として自由を認め合った。私が父
から貰った大切なものは人間が生きる上で一番大切なものは自由だ。だから子供にしても、病院
の職員にしても地域の人達や患者さんにしても各々の人の自由をどういう風に認めてあげるか、そ
の人のその人らしさをどうやって認めてあげるかを考えるきっかけを作ってくれたのは、私達擬制家族
というにせもの家族の中で、岩次郎さんや母のふみから教えられたものが大きかったかなと思う。