八年程、父と三世代家族は過ごすことができて、父は八十八歳 で、糖尿病はあったんですけども、やはり母と同じように、脳 梗塞で倒れるんです。母のことがあったじゃないですか。人工 呼吸器に繋げてしまって、母はそれを喜んでくれたかなあって、ずーっと疑問を 抱えながら、僕はいたので、父が看取る時は、家族の中で、出来るだけ人間らし い、人間的な死を迎えさせてあげたいなあ、と思っていたんですよ。でも、最後 って、分からないじゃないですか、どうなるかってね。脳外科の先生方や内科の 先生が協力してやってくれたんですけども、父は八十八歳ということもあって、 徐々に徐々に悪くなって、二ヶ月治療して、血圧がどんどん下がっていくんです ね。「血圧が五十、脈拍が触れにくくなりました」って、僕は看護婦さんに呼ばれ て、病室へ行きました。病室は個室にいたんですけど、開けた瞬間に、僕はほん とに、こういう光景を見るとは思わなかったんですけども、音楽が流れていたん ですよ。
88-18 70 71 29+18=47青森なんですね。八十五歳位から晩年になると、津軽が恋しく て、小学校卒業して出て来た父は、津軽恋しいというか、故郷 恋しくって恋しくって、という感じで、毎日高橋竹山(ちくざん)さんとい う目の見えない三味線の方の曲を、ビールを飲みながら、いつ も八ヶ岳を見ながら、その音楽を聴いているんです。僕は、ず ーっといつも、「ああ、八ヶ岳を見ながら、父はほんとに八ヶ 岳を見ているんじゃなくて、その向こうにある岩木山・津軽富士を見ているんじ ゃないかなあ」なんて思っていたんです。その津軽三味線が、ほんとに父の耳元 で、静かに流れているのを聞いて、凄いと思った瞬間、目を父のベッドの方に向 けたら、僕の子どもたちや僕の女房が、岩次郎さんの手と足を
─ベッドの上にビ ニールが敷かれて、洗面器が置かれて、お湯が張られて─家族 みんなで手と足を洗ったり、マッサージをしてあげたり、爪を 切ってあげたりしていたんです。岩次郎さんは、血圧五十で、 三途(さんず)の川を渡っているんじゃないかなあ、と思われるシチュエ ーションの中で、故郷の曲を聞きながら、孫たちに手と足をお 湯で洗って貰って、フワフワッとして、気持がいいだろうなあ、 と思った時に、「ああ、この人に拾ってもらって、育ててもら ったけども、ああ、これでいい」というふうに思えたんですね。 母は、ああいうふうに看取ったけども、父はきっと、「ああ、良かったよ」って、 誉めてくれるかなあ、というふうに思えたんですね。それは、僕にとっては、父 と母を看取った、看取り方のところで、僕の医療観みたいなのができてきて、僕 が関わる患者さんには、同じように人間らしく看取ってあげられないかなあ、と いうふうに思うきっかけになりましたね。