今日は昨日の予告通り、支那事変についてのエントリーを書きたいと思います。

 それでは早速どうぞ。




【ポイント】
日本は日支を全面戦争へ導く共産主義勢力の策に嵌った。


昭和12年(1938年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に夜10時から翌朝5時に渡って3度も支那軍(蒋介石率いる国民政府軍)側から不法射撃が浴びせられたことから、日支両軍が衝突する事件が起こりました。これが盧溝橋事件で、支那事変の発端となります。
この事件には、支那のもう一つの勢力である支那共産党の思惑が潜んでいました。もともと支那共産党と(支那)国民政府は対立戦闘状態にあり、一時支那共産党は壊滅寸前まで追い込まれていました。しかし、昭和11年12月、蒋介石が支那共産党と手を結んだ張学良に逮捕・監禁され、釈放の条件として支那共産党との和解と抗日線結成を合意させられたことから(西安事件)、国民政府軍は、日本と戦わざるをを得ない立場に置かれていたのです。
それでは、何故、北京郊外に日本軍はいたのでしょうか。それは、支那に在留する日本人を保護するために軍隊を駐屯させる権利を日本が得ていたからです。本来なら支那に住む外国人の保護は支那政府の責任ですが、1901年の義和団事件(北清事変)で支那政府(当時は清)自身が在留外国人を襲撃して危害を加えたことから、自国民保護のためにそれぞれの外国が軍隊を駐屯する権利が国際条約(北京議定書)で認められたのです。盧溝橋事件当時、日本軍のほかにも、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの軍隊が北京近辺に駐屯していたのでした。
今日支那を支配する共産党政府は、盧溝橋で最初に発砲したのは日本軍の仕業と主張していますが、夜間演習中の日本軍は実弾を装填していませんでしたから発砲は物理的に不可能でした。共産党自身「7・7事変(盧溝橋事件)は、劉少奇同志(後の支那国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以て党中央の指令を実行したもの」と自らが事件を引き起こしたことを表明しています。この事件は、抗日戦線の形成に成功した共産党勢力が、さらに進んで国民政府と日本との武力衝突を引き起こして、対日全面戦争を導こうとした陰謀によるものだったのです。
ソ連・コミンテルンも「局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令を発していました。そのため、現地両軍の停戦協定が何度結ばれても支那側の発砲で破られ武力衝突が繰り返されました。さらに通州では非戦闘員である日本人男女223人が支那軍に惨殺される事件が起こったことから日支の対立は激化。現地での解決を目指して不拡大の方針だった日本政府もついに増援軍の派遣を決定し、支那共産党の思惑通り日本と支那は全面戦争に突入していくことになったのでした。

勝岡寛次 『これだけは知っておきたい大東亜戦争 20の最新基礎知識』 日本会議事業センター 明成社 10頁~11頁


過去の記事も参照ください(タイトルをクリック)。


7月7日 -盧溝橋事件勃発 壱 -


7月7日 -盧溝橋事件勃発 貳 -


7月7日 -盧溝橋事件勃発 補足 -


7月7日 -盧溝橋事件勃発 参 ノ 壱-


7月7日 -盧溝橋事件勃発 参 ノ 貳-