【上海事変は大戦争だった】


 西安事件は1936(昭和11)年12月12日に起きました。部下の張学良が蒋介石を監禁し、共産党に引き渡したという事件でした。毛沢東たちは狂喜し処刑しようとしますが、スターリンは許しませんでした。背後は後に詳しく書きますが、要するにコミンテルンの方針に従い蒋介石をして対日戦争遂行の駒にしたのです。コミンテルンと中国共産党は蒋介石と日本の戦争の実現を希求し、1932(昭和7)年4月26日には中国共産党と中国ソビエト政府は「対日宣戦布告文」を、そして重ねて1934(昭和9)年には「対日作戦宣言」「対日作戦基本綱領」を発表していました。中国共産党は盧溝橋事件の5年も前から、日中の戦争を宣言していたのです。日中両国の運命に深く関わるのが1928(昭和3)年のコミンテルン第6回大会の決定でした。主な方針は次の3つです。


1、自国の敗北を助成すること。
2、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
3、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。



 次の1935(昭和10)年のコミンテルン第7大会はさらに「人民戦線戦術(フロント)を結成する」という戦術に全力をあげていたのでした。

 このコミンテルン決議以来、共産主義者は一斉にフロントに潜りました。共産主義者の姿は消えました。自由主義者か共産主義者かの区別がつかなくなりました。尾崎秀実とゾルゲ・グループの結成も1934(昭和9)年です。日本にも一斉にも一斉に各種のフロントが作られました。盧溝橋事件発生の時の首相は近衛文麿でしたが、近衛文麿の顧問は首相官邸に一室を構えた尾崎秀実でした。近衛文麿内閣の悲惨な内情については、この章のメインです。

 さて、西安事件です。12日の蒋介石逮捕の後、スターリンは殺すなと厳命し、周恩来が飛来し、張学良・蒋介石との間に大二次国共合作(人民戦線そのもの)の秘密協定が成立しました。

 中国人の常としてこうした時には必ず文章が作られますが、この文章だけは出現しないでしょう。口約束だけで処刑寸前の蒋介石が釈放されることはあり得ません。張学良は2001(平成13)年にハワイで98歳の天寿を全うしましたが、西安事件については一切口外しませんでした。蒋介石は共産党により台湾に追われる前に日本の軍人に援助を請い、日本軍人には深い後悔の念を漏らしています。「恨みに奉ずるに徳を以てす」という彼の有名な言(老子の言葉)は、蒋介石のまさに痛恨の後悔の言だったのです。

 西安で蒋介石は日本との即時全面戦争を約束させられたのです。そして釈放されました。

盧溝橋事件などの小競り合いを約束したのではありません。29軍と言う中国軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は、北京政府に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその一部です。この攻撃の作戦計画案が、日本軍によって後日になって没収されています。中村黎氏の名著『大東亜戦争への道』の363頁に詳細に載録されています。「東京裁判」で盧溝橋事件を裁こうとしたら雲行きが怪しくなり、中国(共産党員)判事の梅汝傲(メイルーアオ)は審理を中断しています。だから盧溝橋事件の犯人は「東京裁判」には存在しないのです。

 フロントとして潜入した共産党員たちは、通州事件などあらゆるテロを日本人に加えました。通州事件の酸鼻を極める犠牲者の様は、死者の無念を思うと記すことができません。劉少奇が指揮していたようです(中村・同書)。テロの続発は反面では蒋介石への約束履行の督促でもありました。日本の内外には当然の憤怒の声が溢れました。

 蒋介石は1936(昭和11)年4月に、ドイツとの間に「ハプロ条約」なる秘密条約を結んでいました。これにより第一次大戦の名誉参謀長と謳われたゼークトをはじめとするドイツ人を多数雇っていたのでした。湖南にはベンツの自動車工場もありました。当時世界最高峰の技術を誇ったドイツの工作機械の切削刃材のタングステンは、徹甲弾の芯になる重要な資源でした。「南京大虐殺」で名の出るドイツ人・ラーベは手記にはミシンの修理をしていたなど真っ赤な嘘を書いていますが、ナチス党員であり、シーメンスの南京支社長でもあり、国民政府に雇われていた工作員でもありました。

 ゼークトの後はファルケンファルゼン大将が、合計で五百数十人のドイツ軍事顧問団を率いていました。彼らの信念と自信は中国軍の必勝・日本人の鏖殺(筆者注:読み、「おうさつ」― 皆殺しの意)でした。

 日本居留民十余万人を守るのは弱体な海軍陸戦隊5千人に過ぎない・これを包囲殲滅せようとすれば日本は必ず増援軍を送り込んでくる・これを厳重に構築したトーチカ防御陣地帯に誘引する・第1次世界大戦の教訓として鉄条網と機関銃で固めた陣地に突撃攻撃を加える軍隊は、いかなる大軍といえども、必ず敗北するとドイツ軍人は自信を持っていたのです。日本の増援軍のせいぜい数十万人程度は殲滅させ得ると考えた蒋介石は、上海決戦に出ました。

 ドイツ軍人が予想したように日本軍は大苦戦に陥り、増援の二個師団は身動きが取れない状況に陥ります。さらに三個師団を注ぎ込み、またさらに三個師団、そして一個師団を追加増援して計九個師団余の大軍を送り込んだのです。

 戦闘開始は8月13日とされていますが、15日に蒋介石は全國総動員命令を発し、大本営を設置し自ら総司令に就任しました。日本は閣議で「北支事変」を「支那事変」と改めました。9月2日でした。全面戦争の開始です。逐次投入(この愚は言わないでおこう)された日本の兵力は内地を殆ど空にしてのものでした。結局は12月の南京陥落まで激戦が続きました。日本軍の戦死者2万1300、負傷者5万余を算する日露戦争の奉天戦に劣らない激戦でした。

 蒋介石の目的はなんだったのでしょうか。それは日本軍に壊滅的な打撃を与え、大敗した日本に全ての条約を破棄させることでした。西安事件の約束を蒋介石は実行したのです。



 〔 次回予告:なぜ「事変」で「戦争」でなないのか 〕



※通州事件(自己責任でお読みください)


 盧溝橋事件の約3週間後に起こった、おそるべき虐殺事件についてご存知でしょうか。北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られません。学校の教科書には全く出てきませんし、多くの歴史書や年表にも殆ど載っていません。若い人たちは、事件の名前すら知らない人が殆どでしょう。
 
 この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。
 
 戦後の東京裁判で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしました。しかし、ウェッブ裁判長によって、その申し出は却下されました。この事件にふれてしまうと、日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからでしょう。ただ、通州事件の目撃者による口述書だけは受理されました。あまりに残虐な内容ですが、その一部を引用します。
 
 
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
 
 どうでしょう、これが人間のやることでしょうか。中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして、一斉に殺戮行為を開始したといいます。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だったのです。
 
 当然ながら、この虐殺の報は現地の日本軍兵士を激昂させましたし、日本国内にも伝わって、国民の中国に対する怒りは頂点に達しました。


消された「通州事件」 http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm より