国宝茶室「如庵」と有楽苑ー終 | 京都案内人のブログ

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「如庵」の扁額

 

 

 

 

 

萱門から裏庭に入ると、先ほど出会った係の人が来て、

 

如庵について色々と説明してくれた。

 

 

 

 

 

裏庭

 

旧正伝院書院

 

 

 

 

「如庵」は、織田信長の実弟である織田有楽斎の遺構で、

 

「国宝三名席」のひとつ。

 

 

 

 

「如庵」:1618年(元和4)に織田有楽斎が京都建仁寺の塔頭「正伝永源院」を再興した時、「如庵」も一緒に建てられた。​​​​​​​明治期に東京の三井本邸に移され、大磯の三井別荘から現在の有楽苑に移築された。​​​​​​​

 

 

 

 

柿葺(こけらぶき)の端正な外観を示すこの茶室の内部は

 

二畳半台目で床脇にウロコ板を入れ斜めの壁を作っている

 

ところから「筋違いの囲」といわれている。

 

 

 

 

 

京都の正伝永源院の庭に復元されている「如庵」(2019年3月撮影)

 

 

「如庵」内部の暦貼り(2019年3月撮影)

 

 

 

 

古暦を腰貼りにした暦貼り、竹を詰め打ちにした有楽窓や

 

躙口など随所に独創的な工夫が凝らされている。

 

 

 

 

「如庵」の内部:数年前に「如庵」の元の持ち主だった正伝永源院を拝観した際、庭に復元されているものを撮影。(2019年3月撮影)

 

 

 

 

とくに躙口の位置は、

 

ほかの茶室にはない玄関の横に作られている。

 

 

 

 

正面右側が躙口となる

 

 

 

 

如庵の露地も有楽好みと呼ばれる井筒や蹲が置かれ、

 

風情を演出している。

 

 

 

 

 

露地の井筒

 

 

露地の蹲

 

「釜山海」と名付けられた蹲で、加藤清正が持ち帰ったと伝わる

 

 

 

 

 

ここでまた面白い話を聞いた。

 

今はこの庭からでも犬山城の天守が見えるが、

 

以前は木々に覆われてまったく見えなかったそうだ。

 

 

 

 

如庵の庭園から見える犬山城

 

 

 

 

数年前、この有楽苑の管理者が犬山城に木の伐採を

 

請うたといい、その何年か後にそれが実現して

 

見えるようになったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

色々と如庵と有楽苑についての話を聴いて、

 

萱門の目の前にある建物「弘庵」で一服。

 

 

 

 

弘庵:苑内で四季折々催される茶会のために昭和61年に建てられた茶席。

 

 

 

 

ここでお点前を頂いて露地を抜けると、

 

けっこう大きな築山と鑓水が造られていて、

 

茶花園として季節の茶花が植栽されている。

 

 

 

 

茶花園

 

 

 

 

ここを下りると、最初に拝観した元庵の裏庭があり、

 

茶室内部の様子が伺える。

 

 

 

 

 

元庵

 

元庵の露地(垣根越しに如庵と旧正伝院書院​​​​​​​が見え隠れする)

 

 

 

 

待合に座ってしばしの休息をとって、

 

有楽苑を後にした。

 

 

 

 

元庵の露地の待合

 

 

待合からの元庵

 

 

 

 

 

織田有楽斎のこと墓所:正伝永源院

 

 

※織田有楽斎:1547年(天文16)〜1622年(元和7)

織田信秀の11男として尾張に生まれる。兄の信長の存在があまりにも大きく、その陰にあって武将としての功績よりも、主に信長の折衝役を担当。1574年(天正2)に信長から尾張知多郡を与えられ大草城主となり、信長の嫡男信忠に属したとされる。1582年(天正10)6月、本能寺の変で信長が自刃した時、有楽斎は信忠とともに妙覚寺にいたが、二条御所へ移って明智勢と交戦。信忠らは自刃して果てたが、有楽斎は密かに脱出して安土城に戻った。この逃亡がさまざまな憶測を呼んだ。後に秀吉に扈従し、秀吉没後は家康に仕えるなど、戦国乱世を上手く切り抜けた。関ヶ原合戦には東軍として参戦、大坂冬の陣で豊臣家が滅亡すると、茶の湯の道に専念して、京都に閑居した。墓所:正伝永源院​​​​​​​

 

 

 

 

 

 

 

国宝茶室「如庵」と有楽苑(了)