鞍馬で知る、己の素性 | 京都案内人のブログ

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義経鞍馬編



鞍馬山門

鞍馬寺仁王門



 牛若丸が11歳の頃(義経記では7歳)、母常盤の懇願によって義朝の祈祷師でもあった鞍馬山の別当、東光坊(※3)阿闍梨の蓮忍(れんにん)に預けられた。その後、牛若丸は読書に没頭し、仏教や儒教を学ぶなど学問に明け暮れる毎日を過ごした。


 しかし、それも長くは続かなかった。ある日、正門坊と名乗る僧が牛若丸の前に現れ、源氏の大将義朝の子であることや兄頼朝が伊豆に流されていること、さらに源氏代々の武勲などを聞かされた。己の素性を知った牛若丸は、この日を境に平家討伐を一途として武芸に身を尽くすこととなる。


木の根道

木の根道:
昼でも薄暗い木の根道。修行のため、牛若丸が毎夜駆け上がっていたという。



息継の水

息継の水:
牛若丸が奥の院へ通う途中にこの清水で喉を潤したと伝わる



 牛若丸は名を遮那王と改め、夜な夜な寺を抜け出し僧正ガ谷(※4)に出向き、貴船神社に平家討伐を祈願する。そして義経の武芸の師といわれる鬼一法眼と出会い、その下で日夜厳しい兵法修行に励むこととなった。


義経堂

東光坊跡・義経供養塔:
牛若丸が暮らした東光坊跡に義経供養塔が建っている。





 この鬼一法眼は、陰陽師で一条堀川に住んでいたとされ、中国伝来の兵法書「六韜(※5)」を保持していたという伝説的な人物だった。この「六韜」の極意を知りたかった義経は、鬼一の娘と恋仲となる。その娘の助力を得て、兵法書を3ヶ月ほどで読み解き、遂にその書の真意を極めたとされる。

奥の院

奥の院魔王堂
650万年前に金星より降臨したという魔王尊が祀ってある。牛若丸はここで兵法修行をしたといわれている。




 その頃、黄金商人・吉次信高(※6)と名のる者が遮那王の噂を聞いて面会に訪れた。吉次信高は藤原秀衡と親交が深く、藤原秀衡が鞍馬山に預けられた義朝の子に会いたがっていることや、源平の戦いがあれば源氏に味方することなどを語った。遮那王は日頃の祈願が通じたと奥州行きを決意し、鞍馬山を下ることとなった。


首途

首途八幡宮:
吉次信高の京都屋敷趾とされ、義経がここの清水で身を清めて旅立った伝承がある。




 吉次信高とともに奥州へ下る途中、藤原秀衡に会う前に是非元服を済ませたいとの念願により、兄・頼朝ゆかりの熱田神宮に立ち寄り、縁者や吉次が見守る中元服を済ませる。牛若丸(遮那王)より源九郎義経と名を改める。ちなみに平治物語では鏡の宿(滋賀県竜王町)で元服したとされている。


元服のわき水

元服の歳に使用したという、湧き水



神社

鏡神社
源九郎義経を名乗り、武運長久を祈願したという。


烏帽子松

烏帽子掛けの松:
元服した後にこの松に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝したと伝わる。




 平泉に到着した義経一行は、藤原秀衡に大歓迎を受けた。義経は、その後6年の歳月を送ったが、この間も義経の心には清盛を討ち果たすことにあり、武芸に精進して逞しい武将として成長していた。


 1180年(治承 4)5月、後白河法皇の皇子の以仁王(※7)が平家打倒の令旨(命令書)を全国に発した。伊豆に流刑となっていた頼朝は、これに呼応してついに兵を挙げた。


 この報せを聞いた義経も、兄頼朝への参陣を決意、猛反対する秀衡を説得して分かれを告げた。この時、秀衡は佐藤継信・忠信兄弟らの郎党20騎ばかりを義経に仕えさせた。義経は、すでに郎党となっていた伊勢三郎義盛を加え、関東を目指して平泉を発った。







次回、源平合戦の除幕:兄頼朝との対面