二人三脚の大名ー山内一豊と千代 | 京都案内人のブログ

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内助の功と槍働で土佐20万石を掴んだ武将。





山内一豊(やまうち かつとよ)
1545年(天文14)~1605年(慶長10)。


一豊


 山内一豊といえば、妻千代の賢妻ぶりが知られ、とくに嫁入りに持参した化粧料で名馬を購入した話は有名だ。

 天正9年2月、信長が行った馬揃の際、一豊はこの名馬に騎乗して人々を驚かせ、信長から褒められて面目を施したというものだ(常山紀談)。

 この時期、一豊は秀吉の配下として中国攻めに従軍しているため、不参加だったのだ。ただ信長は、その後も数度の馬揃えを実施しているため、全くの架空話ともいえない。


千代

千代(見性院)


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 一豊は尾張岩倉の織田氏の重臣だった山内盛豊の3男として誕生。やがて織田氏の領土争いで、信長の侵攻で主家を亡ぼされた。父や兄も討死にした山内一家は離散、近隣の国人領主を頼り流浪したといわれる。


 一豊が史料上に登場するのは29歳のことで、秀吉が長浜城主となった頃のこと。信長の浅井・朝倉攻めの際、一豊は朝倉軍の豪勇名高い三段崎勘右衛門を討取る功名を挙げ、現在の滋賀県東浅井郡虎姫町唐国で400石を受けた。


 一豊はこの後、長篠の戦いや越前一向一揆攻めにも従軍して武功を挙げている。さらに秀吉の播磨攻略や1580年(天正8)の三木城攻略後には2500石を受けている。


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 2年後、信長が本能寺において暗殺されると、秀吉はすぐさま主君の仇討ちに成功。対立する柴田勝家も滅ぼすと、一気に天下取りに進んだ。北伊勢攻めや小牧・長久手の陣に続く佐々成政攻めなどの戦功によって、一豊は長浜2万石の大名に抜擢されている。この後も秀吉の九州の島津征伐や北条征伐に従い、戦後には遠江掛川5万石余を与えられた。


 秀吉の死後、関ヶ原戦の際には家康に対して人質と居城掛川城の提供を申し入れ、これが家康の一豊への評価を一段と高くし、土佐一国を領する大名に立身する。

 以後は幕府に対して忠実に従い、甥の忠義の養子が認められた。さらに家康の養女阿姫と忠義の婚姻も成功させて山内家安泰の基盤を作った後、60歳で急死した。


高知城

高知城


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墓所:正法山妙心寺大通院
京都市右京区花園妙心寺町
(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)



大通院-1


 大通院の開基は一豊と同時代の武将一柳直末で、1586年(天正14)に妙心寺住職南化国師を開山として建立。その後一豊が、家督争いを回避するためにも、養子の「拾」を南化国師の弟子として出家させた。京都で修業を積んだ「拾」は、湘南宗化と名を改め、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となり、大通院の2世住持を継承。以後は山内家の菩提寺となった。

 一豊の死後、千代は出家して見性院となり、半年後には土佐を出て京都の妙心寺近くに移り住んだ。一豊の菩提を弔いながら余生を送り、1617年(元和3)に60歳で没した。その後、湘南宗化は母千代の17回忌に一豊と千代の位牌と遺骨を納めた霊屋を建立した。



大通院-2

山内一豊と千代の廟所(参道の先の中央に見える茶色の扉)






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