京都六角堂に名を残す名門大名ー佐々木六角承禎 | 京都案内人のブログ

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時代に押し流された名門最期の武将。


六角肖像


六角承禎(ろっかく しょうてい)

1521年(大永元)~1598年(慶長3)。


 六角氏は近江源氏佐々木氏の4家のうちの一つで、鎌倉幕府の守護として南近江を支配していた名門。承禎は、泰綱を祖とする名家六角定頼の子として生まれた。初めは四郎、後に義賢と名乗り、承禎は、出家した後の号である。


 この六角の名跡は、京都の六角堂に屋敷を持っていたことに由来する。

六角堂本堂
六角堂本堂


六角堂
六角堂のライトアップ


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 父の定頼は、官領細川家の官領代として活躍するが、京周辺では官領細川家と足利将軍家の継承問題が常に燻り続けていた。当時の官領細川晴元は権謀術数の人で、擁立した将軍義晴との対立や本願寺と法華宗徒の対立を利用して、双方との離合集散を繰返し、その都度定頼を頼るなど、その政権基盤は危ういものだった。




 1532年(天文元)、本願寺と対立した晴元は法華宗徒を味方にし、定頼と連合して山科本願寺を攻め落とした。その後の天文5年の法華の乱では、再び本願寺と手を結び、承禎は父定頼と進軍して京の東山山麓一帯の法華宗寺院を攻撃。下京一帯の法華宗21本山は悉く焼き払い、日蓮宗総本山の本圀寺も落している。




 1538年(天文7)、六角氏と同族の江北の京極氏は、台頭し始めた浅井亮政の圧迫を受けていた。承禎は再度父とともに出陣して、浅井の居城小谷城を攻めて亮政を敗走させた。その翌年18歳の承禎は、畠山義総の娘を正室に迎えて押しも押されもせぬ12代目の当主となった。




 京都では、晴元の重臣三好長慶が台頭し始め、晴元は父子2代にわたって再三尽力してくれた長慶の追い落としを謀った。1549年(天文18)、晴元方の三好政長と六角承禎らが長慶軍と摂津江口で激突、晴元方は壊滅的な敗北を喫し、承禎は晴元らと近江に落ちた。




 この戦いの以後、京都をはじめ畿内は三好長慶の支配化となった。一方、江北では浅井3代目の長政が力を付け、1560年(永禄3)、承禎は浅井討伐に進軍するも大敗北。

 これが六角氏の凋落の始まりで、永禄11年の織田信長の上洛戦で城を包囲されて逃亡、以後再起を果たせずに浪々の身で父子ともに没した。



墓所を見る






























墓所:酬恩庵(一休寺)
京田辺市薪里ノ内102

一休寺


 もとは妙勝寺と称し、鎌倉時代の高僧大應国師が禅の道場として建立したことに始まる。その後、一休禅師が宗祖の遺徳を偲び、荒廃していた妙勝寺の再建に取りかかった。

 20年以上の歳月をかけ1456年頃に堂宇を再興、恩師に酬いる意味で酬恩庵と命名した。以後はここが活動の拠点となった。81歳の時、大徳寺の住職となっても、お気に入りの輿に揺られてこの庵から通った。

 六角承禎は、観音寺城から逃れて流浪の身となり、1598年(慶長3)に宇治田原で病死したという。承禎の子の義治ら一族も眠っている。



六角一族の墓所
承禎(右)と一族の墓石





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