悲運の武将ー三好長慶 | 京都案内人のブログ

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栄光から奈落の底に落ちた悲運の武将。


三好長慶(みよしながよし)
1523年(大永3)~1564年(永禄7)。


三好肖像


 三好長慶という名前はあまり知られていないが、戦国時代の一時期に日本最大の領土を治めた大名である。しかし、嫡男の急逝や有力な実弟たちの相次ぐ死、とくに家臣の松永久秀の謀略によって間もなく滅亡への道を辿る。栄光と悲運を背中合わせに持った武将だった。



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 三好家の祖は小笠原長清の子長経といわれ、室町時代に長慶の曾祖父にあたる之長が阿波の守護細川政之の有力な被官として登場する。当時、室町幕府の衰退で管領家の細川・畠山が幕府の実権を握るも、度重なる権力衝突で両家も次第にその力を失いつつあった。そんな中で三好家が阿波国人衆の強力な兵力をもって台頭し始めたのである。








 長慶の父元長は、家督争いに敗れた細川晴元を匿い、支援して管領の座に就任させるが、晴元はその恩を忘れ元長の武力を恐れて謀略によって自刃させている。まだ10歳の千熊丸(後の長慶)は、三好の当主となり1534年(天文3)に細川晴元と和を結んで再び家臣となる。千熊丸は若くして名将としての才覚を持ち、晴元政権下で次第に頭角を顕わしていくのである。








 1541年(天文10)、晴元の守護代木沢長政が謀叛を起こした河内太平寺の戦いで、長慶は木沢長政を滅ぼして父以来の三好の名を復権。この後も長慶は、晴元を幾度も支えるがその度に裏切られ、ついに見限って実権を掌握。1549年(天文16)の頃には畿内をほぼ手中に治め、10年後には日本最大の戦国大名となっている。

飯盛山城趾

長慶の居城:飯盛城本丸跡(大阪府四條畷市南野)


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 長慶政権が絶頂の1563年(永禄6)8月、嫡男義興が急死すると、長慶の落胆は想像以上に大きかった。この以前から長慶は心身に異常があったとされ、義興の死はさらに平常心を失わせ、その老耄は著しくなっていったという。

 義興の死について、「足利季世記」では近習による毒殺で、松永久秀の奸計と記されている。


 やがて長慶は家臣の松永久秀に操られながら、廃人のごとき有りさまで43年の生涯を閉じた。


 家督を継いだ義継も久秀に翻弄されながら、1573年(天正元)、織田信長に攻められ自害して果てた。





墓所:大徳寺聚光院
北区紫野大徳寺町(非公開)

戒名:聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門



聚光院


 聚光院は、三好義継が養父である長慶の菩提を弔うため、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)和尚を開山として1566年(永禄9)に建立した。この笑嶺和尚は、千利休から深く帰依を受け、その縁から千家3家(表・裏・武者小路)の歴代の菩提寺ともなっている。








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