篠原 信 さんのFacebookの投稿です。
本当にそうだと思いましたので、転載します。

 

フリードリヒー2世は「赤ちゃんだけを集めて言語が自然発生するのか?」

実験するために 赤ちゃんをたくさん集め、生きるための最低限の世話はするけれど、赤ちゃんに話しかけたりすることは一切しないで養育させた。すると赤ちゃんたちは短期間のうちに全員死んでしまったという。

 

ルネ・スピッツが似たような研究結果を発表している。

孤児院でろくに話しかけられもせず育てられた赤ちゃんの多くは短期間に死に、大人まで生き延びた人も、知的障害あるいは情緒障害が残ったという。

 

これと同様の環境に置かれたのが「チャウシェスクの子どもたち」。

チャウシェスク大統領が支配したルーマニアでは、産めよ増やせよの政策が続けられ、貧しく子どもを育てられない家庭は、捨て子せざるを得ず、このため、 孤児院には子どもたちが溢れかえり、食べ物は用意されるけどもろくに世話されない状態で育てられることになった。

すると、常同運動と言って、アーアーとずっとうなり声をあげ続ける子ども、ずっと自傷行動を続ける子ども、壁に頭を叩きつけ続ける子どもなど、同じ動作を繰り返す子どもたちであふれかえっていたという。

そうした子どもたちの脳を調べるとすき間だらけでスカスカになっていたという。

ところが。

各地で養子として愛情深く育てられると、普通の子どもと同じように豊かな感情を持った、知的にも遅れのない状態に成長し、脳も頭蓋骨の中で充実するようになっていたという。

どうやら人間がまともに育つには「愛着」が重要であるらしい、ということが、これらの事例からみてとれる。

 

「愛着」の必要性はどうやら子どもだけではないらしい。

ユマニチュードという介護技術の創始者、ジネスト氏が認知症の高齢者施設に行った時、 驚いたという。

「チャウシェスクの子どもたち」と同様、常同運動をするお年寄りだらけ。

ずっとうなり続けたり、自分を傷つけたり、頭をぶつけ続けたり。

ジネスト氏の開発したユマニチュードでは、親が赤ちゃんに対して自然にとる接し方と同様、正面から目をまっすぐ見つめ、優しく微笑み、手のひらで包み込むようにタッチする。

すると、手のひらのぬくもりから伝わる優しさで、暴れていた認知症のお年寄りも心を開き、微笑むようになるという。

例えば、認知症のお年寄りの腕を上からつかむと、どこへ連れて行かれるかわからないという不安を与えてしまう。

ユマニチュードでは、下から支えるように手に触れる。

するとお年寄りは、振り払おうと思えば振り払える自由を自分に預けてくれた、と感じ、そこに優しさを読み取ってくれる。

 

こうした「愛着」の形成により、孤独に苦しみ、誰も自分からの働きかけに反応してくれない寂しさで凍え、閉じこもっていた心が、次第に溶け始め、朗らかな人柄が再び現れてくるという。

人間はいくつになっても愛着を全て失ってしまうと正常な精神状態を保てない生き物なのかもしれない。

 

先日、小中高の先生は「驚き屋」になるとよい、と提案したところ、一部の人たちから「社会に出れば誰も驚いてもくれなければほめてもくれなくなる、だから小学生は仕方なくても、中学生以降は驚くなんていう反応も見せないほうがよい」という意見をもらった。しかし私はそうは思わない。

 

ゆとり教育時代頃に「シカト」というイジメが深刻化した。

学校に行っても誰も挨拶もしてくれず、語りかけても相手にしてもらえず、無視。子どもは心を病み、学校に通えなくなる。

スキンシップとまではいかなくても、心の交流が健全にできる環境にいなければ、人間は心の平衡を保つことができない。

私は、小中高の先生が子どもの成長に驚き、喜ぶことは、飛行機の滑走路のようなものだと思う。

飛行機が飛ぶには滑走路が必要。それは恐らく、小中高の子どもたちも同じ。

小学校以前は、子どもたちは自分の成長に驚いてくれる大人ばかりだった。

だから幼児はさらに大人を驚かそうと高い学習意欲を維持する。

けれど小学校以上になると、大人は驚かなくなる。

それどころか、勉強することも宿題することも当然視し、何なら「もっとやれ」と急かすようになる。

もし子どもが頑張っても「そのくらい当たり前、もっとやってる子はいる」と言って、驚かなくなる。

子どもは次第に学習意欲を失っていく。

 

子どもの成長に驚かない環境って、シカトの中で生きろという話と、程度の差はあれ、どこかしら似通っていないだろうか。

そんな環境では、意欲も湧きようがない。

社会に出ても、誰も全く相手にしてくれない職場というのはなかなかにつらい。大人でも我慢しづらいのに。

私は、社会全体がもっと「驚き、喜ぶ」ものに変わればよいのに、と思う。

日本は特に、妙に「驚くまい」としている気がする。それが人々の意欲を大きく削いでいる気がする。もったいない。

 

私たちはもっと「観察」したほうがよいと思う。

観察すれば変化に気づかずにはいられない。変化に気づけば驚かされずにはいられない。

観察すること、変化を見つけること、素直に驚かされること。

そうすると、子どもは「驚かすことができた」と嬉しくなり、自分の成長でもっと驚かそうと企むだろう。

幼児の口ぐせは「ねえ見て見て」。自分の成長で大人を驚かしたいから。

しかし小学校に入ってしばらくすると、心を開いた人以外にはその言葉を言わなくなる。

驚いてくれないことを学ぶから。驚かない大人ばかりの中で、いつしか学習意欲を失ってしまったから。

 

若さのおかげで、持ち前の活発さのおかげで、常同運動までには症状は進行しなくても、学習意欲は失ってしまう。

小学校以降の子どもたちの学習意欲の喪失は、自分の成長で驚かなくなった大人たちのせいで、一種の「愛着」欠乏の症状として現れたものなのかもしれない。

 

欧米の人たちは日本人と比べると「オー!」とか「ワオ!」とか、驚きの表現が豊か。日本はそれに比べると貧弱。

驚くことは恥とでも考えてるかのよう。

でも幕末の日本人はもっと素直に驚いていたことが「逝きし世の面影」で描かれている。

子どもの成長にも、大人たちは目を細めていた。

大人たちは、子どもたちが大空に羽ばたくための「滑走路」になってはどうだろう。

滑走路は、いざ飛び立てば、空を舞うのに必要はなくなる。

大人が子どもの成長に驚くことは、子どもたちの助走のための道を用意するようなもの。

でも助走するのはあくまで子ども。

 

シカトされる中で人間はまともな精神状態ではいられない。

他方、自分の成長に気づき、驚いてくれる人がいれば、ものすごく嬉しくなり、もっと驚かしたくなる。

ならば、大人はもっと「驚く」ことへの遠慮を、解除したほうがよいように思う。