ある人のFacebookに、次の言葉が書かれていた。
「論語」に
「知ってるだけの人間は好きでやってる人間にはかなわない。
好きでやってる人間は心から楽しんでる人間にかなわない
(之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず)」
という言葉がある。だとしたら、なぜ学校は学ぶことを苦行に変えてしまうのだろう?
学ぶことは楽しいことだと気づいてもらうこと、それが学校という場であってほしい。
「学校」という字もいっそ、楽しむところ「楽校」と変えてしまってよいように思う。
知らなかったことを知ることは、とても楽しいこと。
そうした驚きを常に楽しめる場であってほしい。
本当にそうだと思う。
思い返せば、最初から私にとっての学校はさほど楽しい場所ではなかった。
それでも、そこに行けば先生が知らないことを次々と教えてくれて、
低学年の頃はそれが面白かったと思う。
しかし、四年生頃から成績で何となく子どもたちに順位が付けられ始め、私はそれがとても嫌だった。
だから、まずテストが嫌いになり、やがて授業もさほど楽しいものではなくなっていった。
さらに中学生になるとますます学校という場は楽しいものではなくなってゆき、
学校は色々な意味での修業の場になった。
修行は悪いものではないが、好きでもないことを強制されて我慢する修業は苦行でしかない。
黒板の上部には、「努力・忍耐・根性」なんてスローガンが掲げられていた。
毎日そんなものを見ていたら、努力して我慢することが良いことで、それを続けられることが根性で、
我慢や根性がない人間はダメ人間のように思えてくる。
私は多分、我慢強い子どもであったから、スローガンに従う良い子だったはずだ。
しかし、本音は全く違うことは自分が一番分かっていた。
私はそんな自分が嫌だった。
何事にも喜んで努力して、目標達成するため努力や忍耐を惜しまぬ人間になりたかった。
でも、無理だった。
私が学ぶことの楽しさを知ったのは、43歳になってからだ。
蓄積疲労(?)で退職してから、大学の通信課程に入学して学び始めた時、
乾ききった心がどんどん潤うような気がして、テキストを読んだり試験を受けたり、
スクーリングで様々な人たちと出会ったりすることが本当に楽しかった。
「私の青春は今だな」と思う7年間だった。
その時に心から思った。
「知らないことや知らない世界を知り、さらに知りたいことが増え、
それを次々に見つけて行くことはこんなにも楽しいことなのに、
どうして学校ではそのように感じられなかったのだろう」と。
そして、一番の原因は、学校で様々な形で順位をつけられ、
順位が上の方が価値あることと思いこませられることではないのかと。
面白く楽しいと思うことなら、努力は続けられるものなのだ。
試験だって、他の人と比べられず自分の達成度を知るためだけなら、励みにもなるのだ。
通信での勉強の中には、苦手なものだってたくさんあったけれど、
地道に努力していたら少しずつ目標は近づき、無理だと思っていた卒業までたどりつけた。
無駄な努力はないというが、自分がやりたいとか面白いとか思わないで続ける努力は、
無駄とまでははいわないけれど、その苦行の時間を自分が楽しいことに向けた方が良いように思う。
その方が日々が楽しくなるし、一度きりの人生は楽しさや喜びが多いほどいい。