最近は転載記事ばっかりアップしていたので、久しぶりに自分の思いを書こうと思う。

実は、7月12日に下記の記事を転載した時から書こうと思っていたことがある。

 

「えんがお」の記事に心から共感

 

私がこの記事に心からの共感をしたのが、若い頃に福祉関係の仕事をしていた頃に考えていたことと共通するからだ。

だから、同じ思いで仕事をしている人だと感じて、嬉しかったし応援したい気持ちになった。

私の仕事は、障害幼児の療育指導員から始まった。

十数名の学齢前の障害児とそのお母さん達と、その子の成長を促すことが仕事だった。

まだ若かったし全くの未経験者なので、当時は琴似にあった「北海道整肢学院」に通い、二か月弱の研修だけでその仕事に就いた。

その時に教えてもらったのは、主にポリオとその頃増えてきた脳性まひ児へのリハビリやハビリテーションの方法だった。

しかし、現実に私が受け持つ子ども達のほとんどは、知的障害による発達の遅れや重度心身障碍児、

さらにまだあまり知られていなかった自閉症児で、私が教えてもらったことはほとんど役に立たない状態だった。

愕然・呆然の状態だったが、とにかくお母さんと一緒にその子の運動能力を促そうとしていたが、

やりがいなんてどこにあるのかの、無力感の日々だった。

そんな私を何とか支えてくれたのは、わずかながらも日々成長する子どもと、それを心から喜ぶお母さん達だった。

 

やがてその後、私は社会福祉協議会職員として働くことになった。

職員が少なかったので事務仕事から会計処理、各種団体のお世話係と、

その頃全国社協が力を入れ始めていた地域福祉の担い手としてのボランティア育成、

じばらくするとノーマライゼーション啓発事業が加わった。

当時は一番若いこともあり、新しい取り組みは私の仕事になった。

特に、ノーマライゼーション啓発事業は、

最初の仕事で出会ったハンディを持つ子ども達の未来には絶対に必要な考え方と確信し、

これをやるために社会福祉協議会に来たのだとすら思った。

 

多くの人達にノーマライゼーションの考え方を広めるために、

当時の全社協・道社協は「ふれあい広場事業」を各地の社協に指定事業として開催していた。

恵庭の社協も引き受けることになった時の補助金は、私の記憶では80万円(単年度補助)だった。

このお金で補助金がなくなってもつながる事業ができるかどうかが、私にとっての大きな課題だった。

各地のふれあい広場事業の報告書などを取り寄せて色々と考えた結果、

当市に決定的に不足しているのは「障碍当事者の顔」だと思った。

「ふれあい広場」という以上は、様々な障害を持つ人達と健常者と言われる人たちがふれあわなくてはならない。

それも、当日限りの車椅子体験やアイマスク・白杖体験などでは次には意味のあるつながりにはならない。

(全く無意味ではないと思いますが)

私にはそのような思いがあり、市内のボランティアや福祉団体、障害を持つ人達との実行委員会づくりにまず取り組むことにした。

しかし、それには結構時間がかかり、道社協の担当者からは何度も何度も確認の電話が入った。

「まず中心になる人達で実行委員会を立ち上げてください。私達がノーマライゼーションの説明に行きます」と。

私は「大丈夫です、必ず開催しますから待っていてください」を繰り返した。

 

障害を持つ人達が「これは自分たちの課題だし、自分たちが中心になることが大切」と思って動いてくれなくては意味がないと思ったのだ。

というのは、それまでの福祉は今以上にハンディを持つ人達は受け身であり、

ボランティアの人たちは大変な障がい者のお手伝いをすることがボランティアと考えていた。

今以上に対等な関係ではなく、本気で障害を持つ人達の気持ちを聞こうとする姿勢も少なかったような気がする。

 

そんな経緯を経て、何人かの色々な障がいを持つ人達と出会い、その人たちとの出会いで新しい価値観に触れた若者たちに、

自分たちでできる何かを一緒にやろうという気持ちが芽生えてきた。

それまでに多くの時間を費やしたので、初めての「ふれあい広場」は多分12月頃だったと思う。

その準備作業の時になって初めて、私は「これで市民の人達が来てくれるのだろうか」と不安になった。

当時また十代だったボランティアの女の子にその不安を口にしたら、彼女が言ってくれた。

「大丈夫だよ、こんなにたくさんのボランティアや障害者が一緒に準備してるじゃない、これでいいんじゃないの?」

私は目から鱗の思いでそれを聞いた。

一人一人がそれぞれの立場で自分ができることに取り組んでいる。

まさに、老若男女、障害のある人もない人もごちゃまぜにだ。

それこそが私のめざしていたふれあい広場の形だったのに、いつのまにか私の心配は違う方に移っていた。

しかし、寒い時期だったのに、多くの市民が来てくれた。

それが実行委員メンバーの喜びや達成感となり、「来年は何をしようか」とつながることができた。

 

それから強く心に決めたことがある。

どんなことも、一人一人の思いや願いや困っていることに焦点を当ててそれを大切にしよう。

それが結局は一人一人の心の充実感や喜びや納得につながるのだし、

それは必ず普遍性のあることにつながるはずだと。

それから私の仕事の密かなスローガンは、「一人の思いを形にする」となった。

 

えんがおの代表者が語っている。

「目の前の人を笑顔にするためだけの活動」が、もっともっと沢山必要だと思います。

 それは、ある一人の人が、自分を受け入れてくれる誰かと出会い、愛情を注いでくれて、

負の連鎖から抜け出せた、という物語を作る活動です。」

 

私は自分の体験から、本当にそうなのだと思っている。
その小さなつながりが次につながっていく。時には途絶えたと感じたとしても、形を変えてまた思いはつながっていくはずだと信じています。

 

ちなみに、未来の会の発足の時も、

一人のお母さんの「一人でも二人でも、一緒に話して心がホッとする場をつくりたい」の言葉からでした。

私の「一人の思いを形にする」というスローガンがまだ生きていたようです。