この日は、茨城県常陸太田市にある「鯨ヶ丘」に出掛けました。「鯨ヶ丘」は 高台にあり、遠くから見ると、「鯨の形」をした「丘」であります。
この丘の上には、
戦国時代には「佐竹城」がありました。
「佐竹城」は この地の武将・佐竹氏の城であります。「佐竹城」は、太田城(おおたじょう)とも申します。「佐竹城」は、「鯨ヶ丘」の高台(現在の太田小学校)に本郭が存在していました。関東七名城の一つです。別名、舞鶴城、青龍城とも呼ばれました。天仁2年(1109年)に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであると言います。新羅三郎義光の孫・源昌義が、後三年の役(1051年から1062年)の功により領有することになった地名をとって「佐竹氏」を称しました。二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入りました。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたと伝わります。
「鯨ヶ丘」の山頂に、「佐竹城跡」がありました。
代々の「佐竹氏」は、菩提寺として、「佐竹城」の近くに、「佐竹寺(さたけじ)」を建てて、先祖を敬いました。私と同行の橙色子さんは、「佐竹寺」に立ち寄って、
「佐竹氏累代」を弔いました。
「常陸の佐竹氏」は、強かった。
以降、佐竹氏代々の居城でありましたが、
戦国最末期の当主・佐竹義宣が水戸城に本拠を移しました。
その後、江戸幕府(徳川家康)の一国一城令により廃城となりましたが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理することとなりました。
さて 二人は、「鯨ヶ丘」に戻ります。「鯨ヶ丘」の登り口の分岐点には「広場」がありました。いよいよ、5月5日の「子供の日・鯉のぼり」です。「鯨ヶ丘商店街」の人々が、「鯉のぼり」を泳がせていました。
この分かれ道の右側を進みます。暫くすると「鯨ヶ丘商店街」がありました。
この辺りでは、大きな「商店街」です。
一軒一軒見て回りました。
中に、「くじら焼き」の店がありました。「鯨ヶ丘のくじら焼き」です。
橙色子さんは、甘いものが大好きです。「入って買っていきましょう!」
この店は繁盛していましたね!
「くじら焼き」を買って、まず店の前で食べてみましょう。
「美味しい!」と橙色子さんは、喜んでいます。遠くにやって来て、「美味しいくじら焼き」を食べて、二人は喜びました。「旅の味」ですね。
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