上野国分寺跡は群馬県高崎市と前橋市に掛かってあります・高崎新事務所と寮を確認して | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

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 この日は、群馬県高崎市に出掛けました。高崎市と県庁所在地である「前橋市」は、接していて、着いています。この両都市の接している場所に、「上野(こうずけ)国分寺」がありました。「上野(こうずけ)」とは、奈良・平安時代以降の「群馬県・栃木県」を申します。「上野」にあった「国分寺」です。奈良時代に、時の天皇・「聖武天皇」が、全国に詔を出して、国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を建てるよう命令を出しました。当時、疫病(天然痘)が流行っていて、「国分寺」と「国分尼寺」にて、「金光明最勝王経(金光明経)」と「妙法蓮華経(法華経)」を唱えて、「疫病を退治せよ!」との命令であります。当時は「ウィールス」の正体も分からず、「祈り」に依って、「疫病を退治せよ!」との命令であります。「上野」「下野」「武蔵」「上総」「下総」「安房」など全国で、「国分寺」と「国分尼寺」が建てられました。ここ「上野(こうずけ)にも、「国分寺」と「国分尼寺」が建てられました。しかし、長い間に、風雪で「上野」の「国分寺」と「国分尼寺」は朽ちてしまいました。平安時代は、朝廷政治でありましたが、平安時代後期には、「朝廷」には 金がなくなってしまいました。「国分寺」と「国分尼寺」の修理は出来なくなったのです。やがて、建物は朽ちてしまいました。

 「国分寺」の総本山は、「奈良の東大寺」です。「東大寺」は 別格で、朽ちることなく、現在でも、当時の雄姿を我々に見せております。

 今回 私は、脇野真由美を同行して、「上野(こうずけ)国分寺跡」に行って参りました。境内は広かったです。300m×300m程の敷地がありました。当時は もっと広かったでしょう。

 「金堂」の礎石がありました。「金堂」とは、「本堂」のことです。立派な物には「金」を付けます。「金字塔」「金の卵」「金〇」のごとしです。

「七重塔」の礎石がありました。「聖武天皇」は、全国に「七重塔」を建てるよう命令したのです。背が高くて立派でした。「七重塔」の模型がありました。各地の「七重塔」は どこも 同じように立派でした。ただ 細長い「七重塔」は 地震や風雪に弱かったです。どこにも「七重塔」は 残っておりません。

 私と脇野は、広い「上野(こうずけ)国分寺跡」を歩きました。風が強かったので、寒くて疲れました。

 この後は、近くにある「うちの高崎事務所」に寄りました。祝日であったので、社員は誰もいませんでした。中に入って撮影です。私の個室もあり、寝泊りも出来ます。コタツもあります。

 「南海トラフの大地震」対策です。建物の近くには「社員寮」も建てました。既に、何人かが、「社員寮」に入っています。「社員寮」を見て参りました。新しくて立派でした。まだ定員に達しておりませんので、「転勤希望者」は、私まで 申し出て下さいませ。

 帰ります。私もこのまま、高崎に留まれば良いのですが、残務があります。残務が終わったら、私は「高崎」に住む積りでおります。

 

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