「徳宿城」は徳宿氏の城でした・茨城県鉾田市の城・北浦・鹿行大橋崩落その後 | 西村治彦の日記

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 この日は、茨城県鉾田市にある「徳宿城址(とくしゅくじょうし)」に出掛けました。「徳宿城址」は、酷い小山の中にありました。入口(虎口)は、分かりましたが、小高い丘を登って行きます。丘の藪の中をかき分けて登って行きます。虫がいっぱいいました。

 「徳宿城」は、平安時代末期頃、徳宿氏の初代親幹によって築城されたとされています。桓武天皇の流を汲む常陸大掾氏一族の鹿島成幹は長男の親幹を「北部の守り」として徳宿に配し、親幹は徳宿氏を称しました。徳宿氏は子孫を安房、烟田、菅野谷等に配し、文明18年(1486年)まで9代で約300年間続きました。

文明18年(1486年)5月、水戸城主の江戸適雅(江戸氏)に攻められました(徳宿合戦)。江戸氏が約2000名に対し、徳宿氏は約300名の劣勢のなか、同族の大掾(だいじょう)氏一族の援軍(約1500名)が到着する前に攻め込まれ、江戸氏に敗れ落城しました。城主は戦死し、徳宿氏は9代目の道幹をもって終焉となりました。 戦国時代は、弱肉強食です。各地に 戦国大名が生まれましたが、隣が隣を攻めて、数が半分ずつになります。「徳宿氏」も戦いの中で、滅亡していきました。各地に、戦いに敗れた「戦国大名」の「城址」があります。「城」と言っても、土で成った城です。「城」と言う字は、「土」で「成る」と書きます。もともと、城は、「土」で「成って」いました。ここ「徳宿城址」も、「城」とは言え、土と木ばかりでした。小さな祠は、ごく最近 建てたのです。それも、森の中で、朽ちてきています。「徳宿城」で、その昔、「徳宿氏ら一族」は 団結を高めていましたが、近くの戦国武将たちに、滅ぼされました。歴史の流れの中で、消え去っていきました。全国にこのような、「城址」は数えきれないほどあります。

その後、近くの「北浦」に出て、撮影しました。「鹿行(ろっこう)大橋が見えました。名称の“鹿行”とは、平成の大合併以前に存在した鹿島郡と行方(なめかた)郡の頭文字から取られた地名であります。開通当時の両岸は行方郡北浦村と鹿島郡大洋村でありました。2011年3月11日に発生した「東日本大震災」で橋梁の一部(行方市側より7〜9桁目の3径間、約58 m)が崩落しました。茨城県警は走行中の車両が複数転落したと発表しました。翌日、水没車両1台が発見され、男性1人の死亡が確認されました。地震は怖いです。2014年1月に旧橋のすべての撤去が完了しました。現在の橋は 新しい橋です。 私と同行の脇野真由美は、「北浦」を眺めて、千葉へ戻ったのでした。

 

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