小見川城跡・粟飯原氏の居城・新人たちの遠足・桜満開の頃 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

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 小見川城の城主・粟飯原(あいはら)氏は、本拠地・下総国香取郡小見川の領主として大きな勢力を持ち、また、千葉介(ちばのすけ・平安時代末期以後、下総国千葉郡千葉荘を本拠としていた武家・千葉氏の家督が代々名乗った称号)の重臣としても活躍しました。足利義詮(あしかがよしあきら)に仕えた粟飯原詮胤(あいはらあきたね)の七代目・粟飯原胤次(たねつぐ)は千葉宗家重臣として、活躍しました。 しかし、彼の子・粟飯原常次は父といさかいを起こし、相模国に出奔してしまいました。胤次はやむをえず天文16年1547)、北条氏康の九男光胤を養子に迎えたと言います。しかしその後、常次が胤次に謝罪したため、光胤は自ら相模国へ戻っていきますが、常次は光胤を呼び戻して養子に迎え、のち家督を譲りました。
 光胤は千葉介胤富の重臣として活躍していましたが、天正16年(1588)、急病に倒れた光胤は千葉介邦胤の次男・俊胤を養子に迎えて家督を譲り、5月5日に病死してしまいました。俊胤は「粟飯原孫平」を称し、小見川城から東庄森山城に移ります。そして天正19年(1590)の小田原の戦いでは、兄・千葉重胤とともに小田原城に人質として入り、千葉氏の滅亡とともに城を追われて滅びました。

 そんな歴史の「小見川城」、現在は「小見川城山公園」または「小見川城址公園」として、地元の人々には、人気の公園です。

 私とこの1年間、新人として学び、仕事をこなしてきた「新人たち」と引率の先輩たちで、「小見川城址公園」に出掛けました。

 古墳時代の古墳がいくつもある「小見川城跡」でした。高台にあり、眼下には「小見川の町並み」や「利根川」が見えます。利根川の先は、銚子市です。小見川城跡の遺跡を背景に、皆で 記念撮影です。赤い橋の上でたくさん撮影しました。下は、小見川城の大きな空堀です。古墳を利用した土塁も大きくて、戦いには有利であったことでしょう。

 古墳と城跡を見ながら、皆で 満開の桜の下で、入社1周年の小旅行を楽しんだのでした。

皆で 楽しい食事もしました。皆、たくさん食べました。

 

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