この日は、千葉県市川市にある「国府台(こうのだい)古戦場」を訪れました。この地は戦国時代に、現千葉県の館山城を拠点とする「里見軍」と 現小田原城を拠点とする「後北条軍」が 何度にも亘って戦った古戦場であります。「国府台古戦場・国府台城跡」と呼ばれています。
小田原城を拠点として関東に進出を図る「後北条軍」とそれを阻止する「里見軍」が、ここ「国府台」で長い戦いをしたのです。
「平地」での戦いなので、「後北条軍」が優位に立ち 里見軍を追うと、「里見軍」は撤退します。
しかし 暫くして、「後北条軍」が 手薄になると、また「里見軍」は、国府台に引き返します。
「平地」での戦いは、追いかけたり 逃げたり また 追いかけたりで、 「鬼ごっこ」のようになります。決着が着きません。
高台の小山の上に陣地を張ると、四方を囲まれて 小山の上の軍は、逃げ場がありません。「平地」に陣を張ると、不利とみると 逃げることが出来ます。そして、また隙を見て 攻め返します。
「関ケ原の戦い」では 「徳川家康軍」が「平地」に陣をはり、「石田三成軍」は 小山に陣を張りました、「石田三成軍」は 四方を敵に囲まれて逃げることが出来ず、最後 大将の「石田三成」は、かろうじて脱出しましたが、捕縛されました。「徳川家康」は戦い上手です。
そう言う訳で、「後北条軍」と「里見軍」は 戦場である「国府台」では 決着が着きませんでした。ただ、双方の死傷者は甚大で、死者は双方で 5000人にも、なったそうです。
「国府台古戦場」に行くと「夜泣き石」が置かれていて、夜になると、「シクシクと泣く戦死者の声」が聞こえるのだそうです。当時 死体が ごろごろしていたのだそうです。
その死者を、古戦場のすぐ脇にある寺の僧侶たちが 手厚く弔って埋葬したのだそうです。
戦国時代は、どちらが強いかの戦いです。強い方に寝返りをして、有利に戦うことも多い無駄な戦いでした。
最後 天下を統一した「徳川家康」が、日本を治めます。通信手段の十分なかった当時の宿命が 武器による戦いであったのです。そして 今日がある。
私と同行の「工藤良希」は 地元・「里見の殿様・里見義堯(さとみよしたか)」になりました、里見のお姫様・「伏姫(ふせひめ)」には、「立石優」がなりました。「国府台合戦」は この撮影場所でも戦われました。「里見の殿様・里見義堯」は強そうですね!私は その「父親・里見実堯」になりました、
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