戦国時代の城乗っ取り合戦・伊達政宗・政宗の小浜城と父・輝宗の宮森城・福島県二本松市 | 西村治彦の日記

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この日は 福島県二本松市にある「小浜城址」と「宮森城址」に行って参りました。「小浜城」は 伊達政宗が、居城し、天下を狙っておりました。

この日は 福島県二本松市にある「小浜城址」と「宮森城址」に行って参りました。「小浜城」は 伊達政宗が、居城し、天下を狙っておりました。この日は 福島県二本松市にある「小浜城址」と「宮森城址」に行って参りました。「小浜城」は 伊達政宗が、居城し、天下を狙っておりました。一方「宮森城」は 政宗の父の「伊達輝宗」が居城しておりました。長い戦国時代でも、ほんの一時期であります。

 伊達政宗の「小浜城」は、1471年、大内清継が築城しました。大内清継の前の居住地、若狭の国の小浜に風土が似ていることから、命名されたといわれております。

 その後、伊達政宗が天下覇権を目指し、芦名・会津侵攻の拠点として1585年から翌年にかけて居城していました。
伊達政宗は白石若狭を城代とし1590年以降は若松城(鶴ケ城)の支城として蒲生氏が入っていました。現在、城址には蒲生氏時代の石垣が残る他、堀切、空堀が多くありました。また郭跡がありました。戦国末期の東北地方屈指の大城郭であります。

 一方、二本松市(旧岩代町)にある「宮森城址」は、文明3年(1471年)、大河内修理(しゅり)が城を修築して、名を改めたのがこの「宮森城」です。
それ以前は四本松(しおのまつ)城と称しました。
元々はこの地を領地していた大内家のものであり、後に大内家は伊達家の傘下に入り「小浜城」とともに領地の護衛に役だっていました。
また、「小浜城を下館」、「宮森城を上館」ともいいます。

本丸跡は神社として整備されています。奥には「宮森家祖大内氏城趾」の碑が建立(こんりゅう)されています。
周りには、礎石も残されています。

「伊達政宗は小浜城」に、「父輝宗は宮森城」に居城しました。

1569年、当時の「宮森城主の大河内備中」が大内備前、石川弾正、寺坂信濃(四天王)等に攻められて滅亡しました。

 

「いや~!」、戦国時代の争いは、勝つか負けるかの「陣取り合戦」、戦いは 強い方だけが残っていきました。「どちらが正しいか!」は 関係なく 相手を潰せば良いのです。

 「どちらに着くか」も 日和見です。得だと思ったほうに着き、分け前を戴く。

現代でも 人間は、強い大きい方に着いた方が得だと思う人も多いです。様子を見ていて 有利な方に着く、「洞(ほら)ヶ峠を決めこむ」とも申します。

 「洞ヶ峠」とは、京都府南部と大阪府枚方(ひらかた)市との境にある峠のこと。
1582年、本能寺の変の後、山崎の合戦で、筒井順慶が羽柴秀吉と明智光秀のどちらに加勢しようかと、この峠に陣取って形勢をうかがったという伝説にちなみます。人が権力争いをした時、どちらに着くかで 将来が違ってきます。

 戦国時代の戦いの場を 福島県の山の中に見たのでした。

 

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