杉山城跡・埼玉県比企郡嵐山町にある最高傑作の山城・敵を皆殺し | 西村治彦の日記

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「杉山城」は戦国時代の山城として、山の高低差を巧みに利用して作られた要塞です。ほとんど無傷で残されていることで、関東でも屈指の、戦国期城郭の最高傑作の一つと絶賛されています。城の中心にある本廓に立てば、杉山城跡は、戦国時代の山城であることがよく分かります。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がされてきました。

 戦国時代の初めころ、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、長享2(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。そのことから杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられます。(サイトより)

 「いや~!」私は 山城の「杉山城跡」に行って参りました。下の駐車場に車を置いて、山城を登って行きました。城の入り口は、中学校(嵐山町立玉の岡中学校)の校門であります。コロナ禍で中学校は 休校となっておりました。

 中学校の坂道を登り切った所から右折します。左側には 中学校の調理室がありました。

その先に、「杉山城跡」への入り口がありました。入って行きます。すぐ左側の谷底には、寺がありました。「積善寺」です。

 さらに真っすぐ登って行きます。正面には 大きな土塁が立ちはだかっていました。「大きい土塁ですね!」土塁を避けて 左側から登っていきます。登り路は細いです。細い道の左右は 深い空堀になっています。左の空堀から、矢を射って 細い道を登っていく敵を射落とします。敵は この1か所しか通れないので、矢を射って 殺します。

 この辺りが「最高傑作の山城」と言われる所以です。その先も細い尾根道です。敵を下に落とします。

 敵の通る道が決まっているので、攻撃しやすいです。

 敵は、「扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎし)」です。こちらは、「山内上杉氏」です。元々は、同じ上杉氏でした。戦国時代は 同族でも天下のためなら戦います。

 戦国時代の初めころ、関東では「関東管領山内上杉氏」と同族の「扇谷上杉氏」による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間に「杉山城」はあり、長享2(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。そのことから「杉山城」は「山内上杉氏」が「扇谷上杉氏」に対抗して築城したものと考えられます。

「杉山城跡」からは 山城全体にわたる焼け跡が見つかり おびただしい遺物が発掘されました。戦いで「杉山城」は 火を着けられたのです。

「山内杉山軍の杉山城」は「扇谷杉山軍」に火を着けられ 落城したようです。「最高傑作の山城」も 人海戦略には勝てなかったようです。

 山の上は 攻められると 弱いです。逃げ場がなくなります。戦いは、逃げ場のある平地が有利だと思います。それでも、「山城は強い」と言う神話があったのだと思います。

 

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