佐倉城の菖蒲園・佐倉城址を歩きます・三の門・二の門・一の門・本丸の天守閣
この日は、新人の牟禮明子(むれいあきこ)と神長寛人(かみながひろと)を同行して、千葉県佐倉市にある「佐倉城址」に行くことになりました。
佐倉城は:戦国時代、本佐倉城主・千葉親胤が大叔父にあたる「鹿島幹胤」に命じて築城を開始しましたが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの、今度も邦胤の暗殺によって完成されませんでした。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成しました。
江戸時代には、佐倉藩の藩庁が置かれました。城主は、江戸幕府の要職に就くことが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亨が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行いました。
私たち3人は、「佐倉城址」の「大手門」から入って行きました。
「大手門」の先には、「武家屋敷」や「城主の館」が当時ありました。
広い郭になっています。現在は、広い駐車場になっています。その先は、「大きな深い空堀」と「高い土塁」があり、
ここで 敵の侵入を防ぐ仕組みになっていました。「空堀の間」を進みます。大きな「土橋」です。
「三の門」跡がありました。
「三の丸」には、屋敷が建っておりました。
また暫く歩くと、幕末の城主・堀田正陸(1810年~1864年)の銅像がありました。
その先には、「二の丸」がありました。その「二の丸」に入る門が「二の門」であります。
いよいよ、「本丸」です。「本丸」に入る門は、「一の門」であります。
そう大きくはない「天主」です。「櫓」と言ったほうが合う「天主」です。
「天主閣」は江戸時代に火災で焼失しておりました。
「本丸」は広いです。
「本丸」には、他にも 多くの建物がありました。
明治初頭の「廃城令」により、「佐倉城」は 取り壊されました。戊辰戦争で、破れた「旧幕府軍の残党」が、「新政府軍」に 改めて戦いを挑んでくるのを防ぐ意味でした。
破壊されなかった城は、「姫路城」「熊本城」など僅かです。
さて 我々3人は、「佐倉城址」を歩き廻り、満足でした。この後、「佐倉城址」にある「花菖蒲園」に参ります。
私と「牟禮明子」「神長寛人」は、「美しい!」を連発しながら、
この日は、充分堪能したので、千葉事務所へ帰ります。神長寛人は、歴史が大好きで、「毎日 歴史を学ぶ仕事がしたい!」と申しております。徳川将軍を初代から15代まで、何も見ないで言えますから、凄い歴史好きなのです。
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