佐倉藩の武家屋敷・ひよどり坂を越えて行く
この日は、「佐倉城」に行く前に、江戸時代の武士はどのような屋敷に住み、どのような暮らしをしていたのか、武家屋敷を見学に行くことになりました。同行は、「牟禮明子」と「神長寛人」であります。
ここには、「佐倉城」に勤めていた「佐倉藩士」の屋敷がありました。
「石高」で決まります。
「10石」なら「1年に10人分の米」を得る身分の武士を申します。
家族5人と使用人2人、その他出入りの者の分も必要になります。
余れば、売ることも出来ます。それが余裕となります。
大名でも 石高「3万石」と言えば、年間「3万人分の米」を得る身分の大名を言います。
その地で取れた「年貢」を 余った分は、「幕府」に納めます。
「佐倉藩」では、毎日 武士は「登城」します。大手門から入って、それぞれの勤務地に着きます。現代のように、複雑、多様化していない時代ですので、武士たちは、戦いに備えて、武道に励んでいたことでしょう。
「佐倉藩士」の「倉次亨」と言う武士の写真画が残っておりました。幕末には、写真撮影が出来ました。それで取り壊される前の「佐倉城」の写真画像が 同じく残っているのです。貴重な写真であります。
さて 我々3人は、「武家屋敷」を一通り見学したので、近くにある「ひよどり坂」に向かいました。
「ひよどり」は、急な崖や坂も、上下に波を描きながら、飛ぶ鳥であります。「険しい崖や坂」を飛ぶには適した鳥であります。ここ、「武家屋敷」の近くに「ひよどり坂」がありました。昼でも なお暗い細い坂であります。
この「険しい坂」を下り、また登って、3人は 当時の「武士たち」の移動を想い浮かべました。「ひよどり坂」を登り、そして降りて、私たちは「江戸時代」の人力の大変さを感じたのでありました。
坂は 少々疲れました。
では、「佐倉城」に これから行ってみましょう。
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