佐倉惣五郎物語・宗吾霊堂に祀られて | 西村治彦の日記

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 佐倉惣五郎物語・宗吾霊堂に祀られて

 この日は、成田市にある「宗吾霊堂」を訪れました。「宗吾霊堂」には 江戸時代の「義民・佐倉(=木内)惣五郎」が、祀られております。

佐倉宗吾とも呼ばれています。

その「宗吾」は、名主でした。

農民から年貢を取り立て、佐倉藩に納めます。

取り立てる役目でありながら、農民の窮状を知ると、むざむざと取り立てることは出来ません。

 佐倉藩は佐倉城藩主・堀田氏が治めておりました。

佐倉城内では、配下の武士たちや女どもが、飲めや歌えや、

農民の窮状を知るや知らぬやの饗宴続きでした。

農村では、

困窮した農民たちが、鍬や鋤を持ち寄って、農民一揆を起こす勢いでありました。

名主の「宗吾」に迫ります。 

 見るに見かねた「宗吾」は、近隣の名主たちと協議をします。

佐倉城主の「堀田氏」に、窮状を訴えて、年貢の減免を願い出ようと思いました。

自分たちの意見を、紙に書いて「代官所」や「佐倉藩」の重役に訴え、遂には 佐倉藩の江戸屋敷にまで行き、訴えましたが 門前払いを受け、願いは叶いませんでした。

逆に、宗吾の全財産は没収され、如何ともしがたくなりました。

 この上は、最後の手段、他の名主たちを集め、決意を述べます。

幕府重鎮への直訴であります。

 「宗吾」は、将軍御用人・久世大和守の江戸城への登城を待ち、登城した久世大和守へ、願書を差し出したのでした。

 しかし、却下されてしまいました。

 万策尽きた「宗吾」は、いよいよ最後の手段、将軍家への直訴を密かに願うのでした。

一度、「宗吾」は 江戸城から佐倉へと戻ります。将軍家への直訴の後は、死罪が待っています。印旛沼を渡って、「宗吾」は、家族に別れを告げるのです。

 佐倉藩では、「宗吾」の無礼を知り、「印旛沼」を渡す舟に鎖を掛け、「宗吾」が印旛沼を渡れないようにしました。

 「印旛沼」の渡し・「甚兵衛渡し」は、「甚兵衛さん」の管理です。「甚兵衛さん」は 鎖を断ち切って、「宗吾」を渡します。

 こうして、「宗吾」は 家族の待つ、我が家へ戻ることが出来ました。

我が家で、女房と子供4人とに 最後の別れを告げて、「宗吾」は また 大雪の中、江戸に向かいます。「雪の生き別れ」であります。女房には、「離縁状」、子供には「勘当状」を置いて来ます。家族へ罪が掛からないよう配慮したのです。

 一家別離の悲しみを押し隠し、「宗吾」は降り積もる雪を踏んで、旅立ちます。その合羽の袂に、裾に纏いつく子供たち、「おとう!」「おとう!」と窓格子に取りすがって、呼びかける子供たちの声、「生き別れ」に 胸潰れる思いで、「宗吾」は 雪の裏街道を江戸へと向かうのでした。

 時は 承応元年12月20日、上野東叡山寛永寺の三の橋、参拝の4代将軍徳川家綱公に、佐倉藩百姓総代名主・佐倉宗吾は、おそるおそる、「お願い申し上げます!」と、願書を差し出しました。至誠天に通じてか、後見役・保科正之公の御指示で、願書は、将軍に取り上げられて、大願は 遂に、成就したのでありました。

将軍への直訴は、すなわち、死罪でした。成田の公津原刑場で、「宗吾」は「磔(はりつけ)」で、子供4人は「打首」で、命をなくしたのでありました。

時に「宗吾」は42歳でした。

 自らの命と引き換えに、困窮した農民を救った「佐倉宗吾」、今日に至るまで、その「義民」として、多くの人々の涙を誘います。

私も、「佐倉宗吾」のようになれるでしょうか。

多分 なれないと思います。「宗吾」のことを思い浮かべながら、「宗吾霊堂」を後にしたのでありました。

 

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